兄妹一番上の子どもが13歳の時 
20週流産
一番下の子が「赤ちゃんいなくなったの 、みんな悲しいねママイッパイ泣いてあげて又赤ちゃんきっときてくれるから」とみんな悲しんでるからと話してくれました
 

息子小学校4年 ・ 息子4歳のとき 
三男新生児死

生後一日で亡くなった三男の上には、 小学4年生と4歳のお兄ちゃん達がいました。 二人とも、弟の誕生をそれは楽しみにしていました。 原因は新生児遷延性肺高血圧症で、 生まれるまで予想もつかないことでした。 生まれた赤ちゃんに会いに来ることになっていたのに、 突然の悲報にどんな思いで病院に来たのでしょう・・・。 それでも私は、赤ちゃんがお腹にいた10ヶ月の間、 顔こそ見えなかったけれど、もう一人弟ができる、 ぼくもおにいちゃんになるんだと、 それぞれが心から待っていた弟の可愛い顔を、 小さな手を、身体を見て、覚えていてほしかったから・・・。 検査解剖に連れて行く前にどうしても おにいちゃんたちに会わせたかったから、 二人の到着を待ってもらいました。 下の子は、多分まだ良くわかっていないようでしたが、 上のお兄ちゃんは、目にいっぱい涙を浮かべて顔を見つめていました。 私はまだ病院から出られなかったのですが、 その日のうちに三男は、家族と家に帰り一晩一緒に過ごしました。 上のお兄ちゃんはずっとそばについていてくれたそうです。 「一人にしちゃかわいそうだから」と抱っこもしていたそうです。 私たち家族にとって、とても悲しい出来事になった 三男の誕生でしたが亡くなってからもずっと、 その子がここにいるように過ごしてきました。 いつも写真に向かって話しかけたり、笑いかけたりしているので お兄ちゃん達二人もそれを自然に受け止めています。 今ここに一緒にはいないけれど、 「この子は僕たちの弟なんだ」 と、思い続けてほしいと思います。

娘8歳のとき
死産

かずちゃん、右京くんが天使になって5ヵ月後学校に一人で行くことができなくなりました。
かずちゃん、当時8歳。小学3年生のときです。。

かずちゃんは2年生のとき自分の姉妹が出来ることを知り大喜びでした。姉妹がほしくてほしくてしょうがなかったかずちゃんの夢がやっとかないました。
お母さんが検診に行って赤ちゃんのエコー写真をもらってくると遊びにきていたお友達と「ここが頭でここが足かなぁ。。」と嬉しそうに話していました。
お腹が大きくなって右京くんが動くようになると一生懸命「お姉ちゃんですよ!きこえますか?」と声をかけていました。何度か一緒に検診にも行って右京くんの心臓の音も一緒に聞きました。そのたびにかずちゃんは右京くんに逢えるのを楽しみにしていたんだね。
かずちゃんは、右京の死を知ってウェンウェン泣きながら私のところにきました。
でも、口には酸素マスク、体にはたくさんの管をつけたお母さんの前ではかずちゃんが泣きはらした顔で一生懸命笑顔を作っていました。
「お母さん、生きてて良かった。お母さんも死んじゃうと思っていた・・」かずちゃんの言葉です。
その時かずちゃんはどんな気持ちで私を見ていたのでしょう。。かずちゃんは大切な人が死んでしまう辛さ悲しさをはじめて知ったのでしょう。
私は右京くんを2回抱きました。かずちゃんは私よりずっとずっと長く右京くんと一緒にいました。
火葬の時もウェンウェン大声で泣いていたそうです。
大切な大切な弟が煙になっていく。。。骨になってしまった。。とってもとっても辛かったでしょう。。。
でも、その後も笑顔で私に会いにきてくれました。
時々私が寝ているベットの上にあがって一緒に布団に入って目をつぶっていました。
右京の死から4ヶ月後。かずちゃんは3年生になりました。3年生になるとクラス替えで今まで仲がよかった子達と別々になってしまいました。新しいクラス。新しい先生。そして近所に生まれた赤ちゃん。。
悲しかった事、辛かった事、そして不安な気持ちいろいろ重なってしまったのかもしれない。。。
5月。ついにお母さんが一緒についていかないと学校に行けなくなってしまいました。
朝、お友達が迎えに来てもランドセルの中を何度も何度ものぞいてはうろうろしてトイレに行きます。
次の日は同じ行動をしてトイレから出てくると「おなかが痛い。。」
次の日は「おなかが痛い。下痢になった。。」と沈んでいる。
次の日は学校まで一緒に行き私が帰ろうとすると、手をしっかり握って離そうとしません。
私も、どうしていいのかわからなくなってしまい時々怒鳴りつけたり、きつい言葉を投げかけたりしました。
どうして私ばかりこんな思いをしなくてはいけないのか、自分はとっても不幸な人間に思えてなりませんでした。そんな事が夏休み前まで続きました。
夏休みになって、一日中一緒にいるようになりました。私も朝学校まで送って行かなくていいという安心感。かずちゃんも学校に行かなくていいという安心感。
一緒にいろいろな所に行きました。かずちゃんは学校のプールも何回か休んだだけでがんばっていきました。そして、かずちゃんと右京の話をするようにしました。「右京は私たちのそばにいていつでも私たちを守ってくれてるんだよね。。」という会話から入ったと思います。まず右京がこの世に存在していたことを、私たちの家族だということを認めることからはじめました。
初めはあまり話そうとしなかったかずちゃんも次第に右京の話をしはじめました。「右京はお父さんそっくりだったんだよね〜。自慢の弟だ!」と。。
夏休みの終わりごろから「早く学校に行きたい」と言うようになってきました。この頃からかずちゃんの心の中で何かが変わってきたのでしょうか?3学期、かずちゃんはお友達と一緒に笑顔で玄関を出て学校に行けるようになりました。
かずちゃんがひとつ強くなりました。かずちゃんは一年たった今でも右京くんの顔を覚えています。
お友達がくると「右京にお線香あげようね。」と言ってお線香をあげます。

今思うことはかずちゃんも弟の死を受け入れるのに必死だったんだとおもいます。
私も辛かったけど、それと同じくらい。。いや、それ以上かもしれません。
きちんと死と向きあうことは難しいことかもしれませんがとても大切なことです
そして悲しみにふたをせずきちんと表に出していくことの大切さを痛感しました。右京はこれからも私たちの家族の一員として私たちの心の中に生きつづけるんだね。

長女9歳の時
第二子 生後一ヶ月後 新生児死
9年ぶりに授かった赤ちゃんでした。今まで長い間一人っ子で寂しい思いをさせていたので、娘には慎重に安定期を過ぎて5ヶ月に入ってから報告しました。それはそれは大喜びで、食事も喉をとおらないほどで涙していました。
毎日お腹の赤ちゃんに話しかけてくれ、赤ちゃん産まれたら、オムツをかえてあげる、ミルクも飲ませてあげる、手作りのおやつもつくってあげる、絵本も読んであげる、などととても楽しみにしていました。
35週目の診察の日赤ちゃんの心音が弱いと言う事で、急遽、帝王切開での出産になりました。予定日より1ヶ月も早くあまりにも急な事だったのと、私が酸素マスクをして、病院のベットで寝ていたのもかなりショックをうけたようです。
10日間の入院の際も元気がなく、食欲もなかったと、主人から聞きました。
産まれてきた赤ちゃんは仮死状態で、1140gの小さな小さな女の子でした。
今までずっと順調できたのに何がなんだか訳がわかりませんでした。医者からの診断は18トリソミーという染色体異常の赤ちゃんだという事でした。NICUの中にはいれなかったお姉ちゃんはいつも窓越しに赤ちゃんを見守っているだけでした。
次女が亡くなる2日前、病院のスタッフの方の配慮もあって保育器の中の妹をなでてあげる事ができました。はじめて近くで見る妹にかわいいかわいいの連発でした。
次女はまるでお姉ちゃんを待っていたかのように30時間後に天使になりました。
今のお姉ちゃんは私が添い寝をしてあげないと、眠れなくなってしまいました。
次女の容体が悪いと病院から電話があったのが夜中の三時半、泣きじゃくりながら病院へとつれていきました。無理もないと思います。学校ではお友達から赤ちゃんの事を聞かれるのが辛いとの事でした。時間をかけて、ゆっくりとお姉ちゃんの気持ちを癒していけたらと思います。

長男 5歳の時 
次男  新生児死
産まれてすぐNICUに入ってしまったため、長男は、次男が亡くなる日に初めて会う事ができ、亡くなってからたった一度だけ抱っこができました。
火葬するまではなんとなくしかわからなかった「死」が骨になって出てくると突然泣き始めて不安定になったので、いつか必ず生まれ変わって戻ってくるから、と言うと少し落ち着き納得したようでした。
1年たった今でも生まれ変わって戻ってくるのを心待ちにしていて、戻ってきたらこれを貸してあげる、あれを買ってあげると言っています。弟と二人で遊んでいるところや、二段ベッドに寝ているところの絵を描いたりしています。
毎日朝晩や出かけるときには遺骨に声をかけ、うれしい事があると真っ先に報告しています。七夕の願い事も二年連続で「○○(次男の名前)が早く戻ってきますように」と書いています。
そういう長男を見ていると、一日も早く妊娠し、今度こそ無事に産んであげたいと思うのですがなかなか妊娠できず、焦っています。長男には次男の事で辛い思いをさせたり、私が不安定で寂しい思いをさせたり、いまだに兄弟を作ってあげられないことなどで、本当に申し訳なく思っています。

長男 5歳の時
次男  新生児死
周囲のお友達ほとんどに兄弟がいるので、兄弟が欲しい!と年少さんの頃から言っていました。なかなか授からずに病院でタイミングをみてもらってやっと妊娠。本当に幸せに過ごしてきました。30週で羊水が多いと言われ(それまでは順調でした)、切迫早産で入院。 次男は産まれて2時間で息を引き取りました。
息子に会わせるか悩みましたが、信頼できる助産師さんが「今まで子供に会わせた方で、会わせなければよかったと言った方は一人もいませんでしたよ。」と言われ、会わせました。 息子は私たちの前では普通に振る舞っていましたが、場の雰囲気から理解したようです。 幼稚園の先生にも連絡しなければ・・・と思い母に伝えてもらいましたが、子供は先生に「赤ちゃん産まれたんだけどもうお骨になってお空に帰ったんだよ。いっぱいお花を入れてあげたよ!」と話したそうです。
私の知らない間に立派にお兄ちゃんになっていたんだな・・・と悲しい中にも息子を誇りに思いました。

長男 4歳8ヶ月の時
妹 生後 18日新生児死
  2年後 次女 誕生

長男は長女が天使になってからの対面でした。「可愛い」を連発しずっとそばにいました。
2年後次女が生まれたとき病院のきまりで入院中は赤ちゃんと面会が出来なかったのですが長男はいつも緊張した面持ちで丁度入学したばかりでしたのでそのせいだと思っていたのですが退院の日私が抱っこして連れてきた次女の動く姿を見たとたんパーッと笑顔になり「生きてる」を連発していました。
そしてある時私達両親が亡くなった妹が生きてる時に会ったと知ったら「僕も会いたかったのにー」と大泣きでした。また長女と次女は「顔が違う」と言います。
生まれ変わったのでなく二人の妹がいると思ってくれてるようで嬉しいです。
次女はまだ1歳4ヶ月ですがお姉ちゃんの写真やお墓の前で自然と手を合わせお辞儀をします。


長男が4歳・5歳のとき
2回経験、ともに10週


長男がいてくれたおかげで精神的にとても救われました。辛い気持が紛れました。


兄弟4歳と1歳の時 
 後期流産
.上の子の世話もできなくなり、わずらわしい反面この子たちも死んでしまうのではと心配でたまらなくなった。
4歳の子が三人きょうだいといってくれるのがうれしかった。

兄妹4歳・2歳の時
生後一週間 新生児死
4歳の子は赤ちゃんが生まれてくることを、とても楽しみにしていました。
幼稚園にも通っていますので、出産後4ヶ月くらいはお友達やそのお母さんたち。また、幼稚園の先生などいろんな人達に聞かれて気持ち的に辛かったです。
子供本人も聞かれて説明に困ったみたいです。
赤ちゃんが普通に生まれるのが当たり前と一般の人は思っているので、悪気なく聞かれて余計に辛かったです。

兄弟4才と2才10ヶ月の時 
36週死産

子供達にとったら弟になる兄弟をちゃんと産んであげれなく本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
本人たちはあっさり現実を認め「赤ちゃんお空に逝っちゃたな」と言ってますがすごく心に傷をつけてしまっただろうなと思います。
でも産まれてこれなかった弟を忘れないでいてほしいと思います。

娘 4歳  息子 3歳の時
14週6日 流産
娘と息子の顔を見たのは真夜中の手術が終わった朝方でした。
息子はまだ3歳なので何があったのかはっきりとはわかっていないようでいつもとかわらなかったのですが、4歳の娘はパパとおばあちゃんがいるときは普通にしていましたが、私と2人きりになった時はじめて泣いて「私とあっ君(息子)がママのいう事聞かなかったから赤ちゃんが死んじゃった・・・ごめんなさい」と涙で震えた声で訴えたのです。(私は子の二人の子供をお腹に宿している時に切迫早産で入院しました。ですからずっと「あまりお腹にぶつかったりすると赤ちゃんが出てくるよ!!」と言っていました。そのせいでもあるのでしょう)それを聞いたときは胸が苦しくなりました。
私の流産の原因は感染症のせいで子宮口が炎症をおこし、子宮口が開き陣痛が起きたんでしょうとのことでしたがはっきりとは解らなかったのです。だから全然娘のせいじゃなかったのに。「あなたのせいじゃないの・・・・ママの身体が無理していたの・・・・」と言って2人で泣いていました。
息子も娘も2人とも赤ちゃんが生まれるのを凄く楽しみにしていました。そんな2人に赤ちゃんの顔を見せられなかったのがとても残念です。そして、そんなに自分のせいだと思っている娘が本当に愛しいです。
4歳と3歳だからもしかしたら弟がお空に帰ったのを覚えていなかもしれません。二人がもう少し大きくなったら天使になった空人(あきと)のことを話そうと思います。ママは三人とも愛してるよ。

長男4歳の時 
第二子 長女40週3日 死産
お兄ちゃんになる日を楽しみにしていました。お母さんのお腹が大きくなり、胎動を感じるようになった頃は毎晩寝る前にはお話して、「キックしてくれた〜」って喜んでいました。
予定日が近くなり もし友君(息子)が寝ていて、お母さんがいなかったら、赤ちゃん病院に入院してるから、病院に赤ちゃん見に来てねそして1月5日朝起きたときに、お母さんの姿がないのに気づき、となりにはお父さんがいました。お父さんは何も言わず、今からお母さんの病院に行こう・・・病院に来た息子は 「お母さんおはよう! 赤ちゃんどこ?」「う〜ん 今ね病気だから病院にはいないんだ ごめんね」それ以上の言葉はでなく 私は泣いていました。面会時間になると 両親が集まりみんな泣いていました。息子は「なんでみんな泣いてるの? 変なの〜・・・」赤ちゃんに会わすことが怖くて、その日は会わせませんでした。
次の朝、「友君の妹に会いたい? 」 「 うん! 」「でも病気で死んじゃったんだわかるかな? 」「え〜そんなの嫌だ〜」と言いながら泣いてました。
今日はお別れの日でした。 今しか、ななみちゃん(亡くなった娘)に会うことができないし、なんとなくわかる年齢なので、最後に会わせました。 素直に可愛いね〜でも冷たい・・・
火葬場では「燃えちゃう、嫌だ〜熱いから可哀想だよ〜・・・」大泣きでした。遺骨になってしまった妹の姿を見て さらに大泣きでした しかしすぐに泣き止み、俺も骨拾ってあげると言ってくれました。
抱っこしたり、遊んだりできなかったのに、こんな結果になってしまいましたが、ちゃんとお兄ちゃんになってくれたんだなぁと思いました。小さいながらに我慢していて、可哀想でしかたありませんでした。
息子に、友君の通ってる病院じゃ治らなくて、天国の病院なら治るから、ななちゃんは天国に治しに行ったんだよ だから病気が治れば生まれ変わって帰ってきてくれるから、もう少し我慢してね!
お墓の前、夜の星空を見ていると、「ななちゃんの病気が治りますように!」手を合わせてお話しています。 今では知り合いの人など、「赤ちゃん産まれた?」って聞かれるたびに 私は辛くなりますが、息子は  「うん 女の子だったよ〜でもでね〜天国の病院に治しに行ってるから、今はいないよ〜 」まだ小さいのに現実を目の当たりにさせてよかったのかと悩んでいますが、病気が治ったら帰ってくると信じている息子に、嘘をつかないように約束したいです。

長男 4歳の時
第二子 36週4日
上のこの日常生活が変わらないよう、ただただ願い努力しました。
上の子は、妹の誕生死を誰よりも自然に受け止めてくれたように思います。教えたわけではなく、赤ちゃんのために買ったお仏壇にいつも自然に話し掛けてくれています。
おはよう・行ってきます・ただいま・お休み・・・。そして舞い散ったサクラの花びらやレンゲなど、妹へのお土産と言ってお仏壇に持ってきてくれます。
「ほのか死んで悲しい? 僕も悲しいから、お母さん泣いていいよ。」と言ってくれる優しい子です。
亡くなった妹のことをずっと忘れずにいてくれたら・・・と思います。
息子のためにもう一人赤ちゃんを産めるよう、頑張りたいです。

長女4歳のとき  
第二子死産

娘がいてくれたお陰で、私は辛い現実から逃げる事無く受け止められました。
泣いても泣いても涙が止まらなくてこんな母を見て、不安な気持であるのにもかかわらず寄り添い私を抱きしめてくれました。
まだ5ヶ月経ったばかり。娘には天使になったんだよといってます。空を見上げ おーいooちゃーん。また会おうね。などいってます。
見えない存在の妹は、娘の心のなかで生きている。私は少し寂しくそして、うれしくもあります。