38週1日2006.11.24
原因不明 死産

2006年3月30日
産婦人科で妊娠が分かる。2006年12月7日が予定日。
11月21日
夜22時頃,お風呂からあがってダンナと電話していたら破水。
その後,病院の周産期センターに電話して,入院の用意をして来るように言われ,両親と一緒に病院へ向かう。入院の準備は整っていたのですぐに出発できた。診察の結果,破水しているのでこのまま入院。でもすぐに産まれないので両親は帰宅。両親からダンナにも連絡してもらう。
4人部屋に入ると誰もいない。でも,夜中に急患が入り,次の日の朝には4人部屋が満員になっていた。その日は初めての入院と,もうすぐチビちゃんに会えるんだという気持ちで興奮して眠れなかった。隣の人は,帝王切開で出産したらしく,夜中に痛い痛いとつぶやいていた。でも旦那さんと幸せそうにヒソヒソ声で会話していた。たぶん夜中の12時くらい。私ももうすぐだ!と思った。
22日のんびりと入院生活を過ごす。4人部屋で向かいの人も同じく破水しての入院。3人目とのこと。
母が午前と午後来てくれて,おやつやらりんごを食べた。売店にも行って雑誌を買ってくれた。もうすぐ産むんだから体力つけなきゃ!!と思った。母の心遣いがうれしかった。
点滴の針を入れるのが痛かった。トイレに行くのも大変だ。今のうちにシャンプーだけしておこうと思い,看護師さんにOKをもらってシャンプーをする。午前と午後15時頃NSTで赤ちゃんの心音とる。私のお腹の張りも見る。陣痛はまだこない。
17時すぎに「ご飯のあとに先生の診察があるよ」と看護師さんに言われたので,ダンナと母に電話,メールするが,その後「診察は明日の朝に変更になったから」と言われたので,ダンナに今日は陣痛が来るのを待つだけだから来なくていいよとメールする。20時頃看護師さんがドップラーで心音を確認する。なんだか忙しそう。夜,22時頃胎動を感じた。このときがチビちゃんと最後の会話だった。いつもと同じに「チビちゃんが出てきたくなったら出てきてね,お母さんはいつでもいいよ」と声を掛けて寝た。前の日にあまり眠れなかったので,寝なきゃと思って寝た。
23日朝6時すぎ。病院は一応6時起床となっている。なんか寒いと感じた。チビちゃんが動かないなあとも感じたが,もうすぐ産まれるからだろうと思った。看護師さんがドップラーで心音を確認しにきたが確認できず。「赤ちゃんの位置が良くないのかなぁ」と看護師さん。二人目の看護師さんも確認できず。
23日の朝6時半すぎ。看護師さんと一緒に診察室へ行く。点滴と一緒に歩くのもなれてきたけど,不安。なんでチビちゃんの心音聞こえないんだろう。当直の先生がエコーで確認。いつもより長い。私も画面を見ていたが,いつも「ドキドキ」と動いているチビちゃんの心臓の部屋が何もない。動いていない。自分で見てもわかったけど何も聞かずにはいられない。「先生,赤ちゃん生きてますよね?」「…。」
「何か原因がわからないけど,赤ちゃんが亡くなってしまったんだね…。」
そこからは記憶が曖昧で,よく覚えてないけど,先生が「僕一人の診察じゃ判断できないから…」と言って,もう一人の先生が来るまでがすごく長く感じたことは覚えている。あと,「ご家族に連絡するから…」と言われたので,「赤ちゃんは生きてますと言ってください。」「主人は遠くにいるから心配するようなことは言わないで」と看護師さんに言った気がする。
昨日の夜まで元気に動いていた。妊婦検診では一度も異常なんてなくて,体重をちょっと注意されただけで。具合が悪い時なんて,食べづわりのときだけだし,そんときだって今考えれば,あんまり具合悪くなかったし。なんでなんでなんでチビちゃんが。大きいお腹に何度も言って。いろいろ原因を考えた。あの時のあれがいけなかったのか。両親と会ったのが7時半くらい。私に会う前に先生から説明があったらしい。母も父も泣いていて,私はチビちゃんも私も何も悪いことをしていないのに…と泣いた。この辺も記憶が曖昧。でもあのときの両親の顔は一生忘れないと思う。里帰りして,一生懸命私のお世話をしてくれていたのに。ごめんなさい。ごめんなさい。
9時過ぎに4人部屋から個室に移動しました。10時過ぎにダンナが新幹線で病院にかけつけてくれた。6時半の信じられない宣告からもう3時間以上過ぎていた。でも私の中では時間の感覚がなかった。ダンナに昨日の夜から今日の朝までに起きたことを泣きながらしゃべったけど,何をどう話したか記憶が曖昧。ダンナは一緒に泣いていて,でも「チビちゃんは生きてるかもしれないよ。俺は信じてる。」と言ってくれた気がする。
ダンナと一緒にもう一度診察室へ。エコーで赤ちゃんを確認するが,心臓は動いていなかった。
私は先生に「お産は頑張ります。1%でも赤ちゃんが生きているという可能性はないんですか?」「先生,赤ちゃんは絶対助からないんですか?」と聞いた気がする。先生の「私は普段”絶対”という言葉は使わないけど,今回は絶対助からない。」という言葉で頭の中が真っ白になりました。
それでもダンナは病室で「チビちゃんは生きてる」「頑張ろう」と言ってくれたと思います。
子宮を広げる棒のようなものを入れる処置をしてもらう。とっても痛い。
ダンナは病院に泊まってくれるとのこと。ダンナの両親も病院に来てくれた。遠くから,こんな形で来てもらって本当に申し訳ない。夕方バルーンを入れる。それから夜までどう過ごしたのかあまり覚えていない。21時過ぎに陣痛らしいモノが来て,22時くらいから本格的に陣痛が来た。母にメールで連絡して両親が来てくれた。背中をみんながさすってくれて,夜中にLDRに移動したと思う。陣痛は予想より痛くて痛くて「痛いよー痛いよー」と私は叫んでいた。でもある看護師さんに怒られ,そこからは呼吸法を教えてもらい,痛いというのを我慢したと思う。朝の7時くらいまでそんなことが続いたと思う。両親とダンナは代わる代わる背中をさすってくれていたと思う。もうそこからはあんまり記憶がなくて。私は助産師さんに何度も「お腹を切ってください。」「もう頑張れない。」と言ったと思う。
結斗が生まれた日は,家族3人で病室に寝ました。嬉しくて嬉しくて眠れませんでしたが,やはり2日寝てないのでウトウトして寝ました。ふと4時頃目が覚めました。隣で寝ているダンナの寝顔が結斗そっくりで涙がでました。結斗もすやすや眠っているように見えます。もうかわいくてかわいくてずっと見ていても飽きない…。でも現実を受け入れるのが怖かった。
次の日から結斗のために,日中は結斗を預かってもらうことにしました。ひんやりしていた方が結斗にはいいのです。だからお母さんお父さんも離れて寂しいけど頑張ることにしました。
火葬や埋葬の話,ダンナと父が進めてくれました。ありがとう。
悲しくてもお腹は空くしシャワーも入りました。初めてシャワーに入った時,自分のお腹を見て涙が出ました。今もシャワーでは一人で涙が出ます。個室といえども,赤ちゃんのお世話をするお母さん達との入院生活は辛かった。ダンナがいなかったらどうなったかわからない。
25日〜28日
25日の夜は眠れず看護師さんに筋肉注射をしてもらいました。次の日から睡眠導入剤を飲みました。毎日両親が来て一緒にご飯を食べてくれました。母がご飯を作って来てくれました。
27日に退院診察があり,28日にダンナ,母,そして義両親も病院に来てくださり,結斗を連れて退院しました。「次もこの病院で産みます。私のこと忘れないでください。」
看護師長さんが外まで見送ってくれました。