2002・3・26生、
           4・13帰天 生後18日 
原因 エプスタイン奇形


妊娠中は特に問題なく、むしろ4歳上の長男の時と比べ発育も大きめで胎動も激しく(本当に女の子?)と不思議に思うくらい。
ただ1度やたらと長いエコーの末医師が「多分大丈夫でしょう」と言ったのがひっかかりつつも長男の世話に追われる毎日の中、すぐに忘れてしまいました。
私は長男を緊急帝王切開で出産しており、今回赤ちゃんが小さめなら自然分娩も可能とのことでしたが大きめだったので36週に帝王切開することが決まり38週3日目に手術しました。長男の時も楽だったので、気楽で笑いながら手術台にあがりました。しかし、麻酔が途中で効かなくなってきて表現しようの無い痛みに苦しむ中
2002.3.26AM10:50
長女、陽菜子の元気な産声が聞こえました。長男の時より元気いっぱいのその声はずっと聞こえていました。しばらくしてバスタオルにくるまれ陽菜子が連れてこられました。
顔見た瞬間、嫌な感じがしました。可愛いと思えませんでした。なんでだろう?やはり男の子の方がよかったからかな?生まれてみれば我が子はどちらでも可愛いというのに、そう思えなかった、これから育てられるのかな?と不安に思いつつも、まだ縫合中だった為(後でまたゆっくり会えるから)と余り良くは見ませんでした。病室に戻ると主人が居て「赤ちゃんのこと聞いた?心臓が悪いみたいだから、これから救急車で大きな病院に運ぶって」と言われました。後で看護士さんに聞いたところ、私が初対面した時すでにチアノーゼが始まっていたそうです。だから嫌な感じがしたんだと思いました。突然のことに私の頭の中はパニックです。
搬送先の新生児科の医師からは「病院が遠い為着く前に亡くなる可能性もあります」と言われ、このまま亡くなるまで一緒に過ごすか可能性にかけるか選択を迫られましたが、可能性かけました。
陽菜子が連れていかれた後一人残された私に看護士さんが「赤ちゃんのことは考えては駄目だよ」と言いました。翌日実父にも同じこと言われました。
でも、考えないわけがありません。点滴替えに来るたび、看護士さん達は「あの病院なら大丈夫だから」と励ますばかり。
私は一人で自責の念や不安に耐えるしかなく、長男もまだ幼稚園だった為動揺させてはいけないしと、みんなの前ではとても前向きな態度を装い一人になる泣くという日々でした。
陽菜子は生まれたその日助かる見込みはほとんど無いと言われました。しかし、新しい手術が確立されたばかりで米国で3例の成功例があるとのことでそれにかけることにしました。もちろん医師にとっても初めてする手術、とても不安でした。
一人で耐えることにも限界になり、私は(確実に助かるとわかるまでこの子を自分の子として受け入れるのは止めよう。その方が万が一亡くなった時ショックも少ないだろうし、早く忘れられるだろうから)と、とんでもないこと考えるようになってしまいました。
生後8日目翌日手術控えた陽菜子に会いにいきました。抱っこさせてもらいました。
搾乳しておいた母乳も哺乳瓶で飲ませてあげることができました。
看護士さんから「やっぱりママだと良く寝るね、わかるんだね、気持ち良さそうだね」等と声かけて頂きました。でも陽菜子に対してすっかり心閉ざしていた私は全く可愛いと思えず仕方なく抱っこしていると言う感じでした。
満腹になると陽菜子は起きて、じっと私の顔見ていました。私はなんだか責められてるような気がして目をそらしてしまいました。
生後9日目三尖弁形成術の手術受け、手術中に亡くなるという最悪の事態も覚悟するように言われていましたが、陽菜子は頑張って戻ってきてくれました。肺高血圧症になり、多くの方に有効な薬が陽菜子には全く効かず1度目のとき閉じた動脈管を再び開く手術を生後10日目日付が変わったと同時に行いました。そしたら今度は体循環が悪くなり、おしっこが出ずむくみがどんどんひどくなっていきました。
生後13日目私はわざと面会に行きませんでした。そしたらその日の午後から容態が急激に悪くなったので明日再び手術すると連絡がありました。その後出血傾向になり、全身の皮膚からも出血するような状態、看護士さんから点滴のついて無い方の腕を「なでてあげて」と勧められ触ったらまるでぬいぐるみのようで(もう駄目なのかも)と陽菜子の死を強く予感しました。
生後16日17日とおしっこが少しづつ出始め、むくみも引いてきたように思いました。このまま回復してくれるかもと期待しました。しかし生後18日夜中病院から「急変した」との連絡受けかけてけるとすでに心臓マッサージの最中でした。
モニターの数値みると数時間前まで70代はあった血圧がマッサージしてやっと42、医師が手離すと一気に20台に・・・信じられませんでした。
機械が壊れているのかもとも思いました。まだまだ時間かかるからと別室で待機するようにいわれました。30分くらいすると主治医の先生がいらして「もう自力では心臓動いてない、マッサージにもほとんど反応しない、もう1つ回復させる方法はあるが、かなり本人に負担かかるし、それで今後回復する可能性も少ない、残念ですがあきらめるしかないと思います」と告げられました。
その先生は他の医師が厳しいこと言う中いつも「可能性は0ではありません。なんとか助けたい」と前向きに話してくれていました。その先生が諦めた方がいいと、また私自身も心臓マッサージされてる姿見て余りにかわいそうで、もうこれ以上痛い目苦しい目に合わせたくないという思いから治療の中止を承諾しました。
最期のお別れをとICUに通されました。私は奇跡が起きること期待する一方、陽菜子が亡くなる瞬間見たくなくてろくに顔もみてあげませんでした。
今思えば陽菜子が生きていた最期の顔を見てあげあかった。いっぱい頑張ったね、えらかったね、ありがとうと声沢山かけて送り出してあげたかった。
2002・4・13AM2:31陽菜子は天使になりました。