15週5日 原因不明 
2004.04.21
妊娠発覚
妊娠かなと思い検査薬を使ったら結果は陽性。あまりの嬉しさに、検査薬のケイタイ写真を撮って夫にメールした。すぐに夫から喜びの電話が有り、夫が帰宅後は靴を脱ぐのも惜しいほどにすぐに抱き合って涙を流し喜んだ。ただ、私は嬉しさと同時にとてつもなく大きな不安を感じていて怖かった。初めて赤ちゃんを授かったし、自分だけの身体ではなくなり大きな責任を負う事になったのが不安で泣いた。夫は優しく「赤ちゃんはじゅん(私)のおなかにいるでしょ、じゅんは俺のおなかにいると思えばいいんだよ。」と安心させてくれた。
4.24初診
さっそくそれまで通っていたクリニックで妊娠検査をしてもらった。そこは約1年前、急な下腹部痛を起こし“子宮にコブがありますね、漢方薬で様子を見ましょう”と言われ2,3ヶ月に1度通っていた産婦人科だ。診察の結果、妊娠7週2日。12月9日が予定日と告げられた。突然年内に出産と分かりとてもびっくりした。今年中にお母さんになっちゃうんだぁ、と思うと不思議だった。
心配だった事が2つ。1つは漢方薬で治療中だった“コブ”の事。この日初めて、コブではなく“子宮筋腫”という言葉を先生から聞いた。
「子宮筋腫の大きさは約4cm、1年前から大きさ変わらないね。切迫早流産を起こす可能性もある。どちらかというと後期に邪魔をする可能性があるけど、心配しなくていいですよ。」へぇ、私って子宮筋腫だったんだぁと思った。先生が心配しないでいいっておっしゃってくださるのだから、変に心配する方が悪影響だろうと考えた。もう1つの心配事は私が原因不明のアレルギー体質で、12年前から慢性じん麻疹の薬を飲み続け、1年前からは喘息の薬も飲んでいた事。それぞれの病院では以前から妊娠の希望を告げリスクの少ない薬をいただいていたが、リスクはゼロではない事は承知していた。産婦人科の先生から、今まで飲んでいた薬は一切やめるようにと言われた。
7〜9週目
アレルギーの薬をやめろと言われて困った。呼吸器科の先生の元へ行った。喘息は治まっていた頃だったので、内服薬をやめて吸入薬だけにした。じん麻疹の薬はどうしてもやめられない。服用間隔は徐々に伸ばしていたが、4日に1錠の間隔で落ち着いていた。それ以上間隔を空けると全身がそわそわしてすぐにミミズ腫れができ生活できない。皮膚科の先生とじっくり話をしたが、リスクを承知で薬を飲み続けることにした。(不思議なもので、その後9週目から流産後しばらくの間まで、なぜだかじん麻疹の薬を一切飲まなくても済んでいた。母体の免疫力が高まったからだという話を聞いた。それまで10年以上続いていた症状がぱったりなくなったのは不思議だけど本当にありがたかった。)
その後流産まで
10週目、12週目に検診に行ったときは、順調と告げられていた。エコーで見ると毎回、予定より1週分くらい大きめに育っていて、「首のラインも背骨もきれいで奇形の兆候は見られない、筋腫は子宮の成長に伴って大きくなっているけど、位置からして問題ないでしょう。」と言われた。
12週目の時赤ちゃんの心音を聞かせてもらった。最初は何の音か分からなかった。びっくりした。あんなに早いリズムだなんて。一生懸命大きくなろうとしているんだなぁと思うといとおしく感じた。毎回いただくエコーの写真が楽しみでならなかった。他人から見たらそらまめにしか見えないような写真でも、かわいくてかわいくて。宝物のように毎日持ち歩いていた。
仕事は続けるつもりでいた。シフト制の立ち仕事で、バスケットボールの試合のように忙しいこともある職場だけど、私の妊娠をスタッフ全員で支えてくださり本当に良くしていただいた。赤ちゃんが生まれたら、みんなで産んだんだと思って精一杯の感謝をしようと思っていたほどだ。
妊娠して、いろいろな物事の見方が変わった。毎日乗っていた満員電車をどう攻略するかに悩み、スーパーに並ぶ色とりどりの食品は目を凝らして選ぶようになった。新聞やテレビのニュースに敏感になった。国の少子化対策のニュースは真剣に読んだ。殺人事件のニュースには今まで以上に心を痛めた。イラク戦争後の話題が毎日騒がれていたが、「ブッシュもフセインもいっぺん子供を産めばいいんだ、命に対する考え方がまったく変わるはず」なんて真剣に思った。親の有難みに気付いた。お誕生日は生まれた人が祝福される日だけではなくて産んだお母さんが祝福される日であるべきだと思った。次の自分の誕生日は両親にありがとうを言おうと思った。
吐きづわりはまったく無く、その代わり食欲が旺盛になった。11週目あたりからは、午前中にはすこしポッコリしている程度のおなかが夕方を過ぎるとパンパンに張ったのが少し苦しかった。12週目までは2週間に1度検診に通ったが、その後4週間後に検診と言われていたので、早く4週間経たないかなぁと半分楽しみで半分不安だった。15週目のいつからか、夜のおなかの張りがなくなった。体がとても楽で、自分では妊娠生活中一番体調が良いと感じていた。後から考えれば、それが一大事だった。
6.21流産発覚
15週と5日目、やっと待ちに待った検診の日。さて何cmになってくれたかな、いつも大きめに育っているからきっと今回は17週目くらいの大きさになっているかも・・と期待しながらエコーの画面をみせてもらった。
「14週くらいの大きさだね、見る角度によって変わるから小さく見えるだけかな。」と言われてちょっとがっかりした。その後しばらくいろいろな角度に機器を動かしながら黙っていた先生が心音を聞く機器を持ってきた。音を探っている先生の様子がおかしい。「おかしいな、心音が確認できない。」エコーの画面でも心臓の動きが確認できないと言う。私は状況がいまいち理解できなかった。あせってはいなかった。機械で確認できないだけだろう、心臓がとまっているはずがない。最初はそう思った。先生が機器をいろいろいじっている時間が長くなるにつれ、自分に大丈夫大丈夫と言い聞かせるようになった。しかし希望に反して、先生はきっぱり言った。「赤ちゃんの心臓が止まっている。」傍から見たら私は妙に冷静に見えただろう。実際は状況が理解できず、どうにか落ち着くのに必死だった。よく見ると赤ちゃんの皮膚がもうふやけていると言う。大きさが予想より小さかったのも、一週間くらい前に死んでいたからだそうだ。心の中で大きく深呼吸した。状況を受け入れようとした。「わかりました、では、どうすれば良いですか。」精一杯落ち着いた声でこう言った事をはっきり覚えている。母体の安全のため、赤ちゃんを早く外に出してあげないといけないと言われた。そのクリニックでは入院設備がないため、急遽近くの産婦人科を紹介していただいた。説明を聞きながら、とうとう堪え切れなくなって涙が出た。看護婦さんがすぐにティシュを差し出してくれた。どうにかその場では最後まで冷静を装った。ずっと自分にしっかりしろと言い聞かせた。クリニックを出て、すぐに夫に電話をした。夫が電話口に出た途端、私は声を上げて大泣きした。クリニックの前の階段に崩れるように座り込んだ。夫はすぐに仕事を早退して帰ってきてくれた。その日は長かった。午前中に定期検診で赤ちゃんの死を告げられ、一旦家に帰りソファに倒れこむとただただ泣いた。どうにも治まらなかった。午後3時頃、紹介先の産婦人科に夫と行った。違う先生に診てもらえば、実は死んでなかったなんて可能性もあるのではと期待していたが、やっぱり赤ちゃんは死んでいた。15週5日稽留流産。
翌日からすぐに入院する事になった。その夜は私の両親が駆けつけてくれた。私は両親の前では一切泣かなかった。それまでも両親の前で泣いたり弱音を吐いたりした事はなかった。長女だったからだろうか。その日もそれまで同様、気丈に振舞っていた。両親が帰り、寝る時になって、悲しみは爆発した。夫も声を上げて泣いた。ベッドの中ふたりで何時間も泣いた。
6.22〜27入院
6日間の入院。悲しみも吹き飛ぶくらいの難産だった。“風船のような物(と説明された)”を子宮に入れて引っ張り、陣痛を起こさせてなるべく自然な方法で産ませる事になった。ところが、入院3日目に出産予定だったが陣痛誘発剤の座薬も点滴も一向に効かない。仕方なくもっと大きな“風船”に入れ替え、出産は翌日に持ち越した。大きな風船に入れ替える時、破水をしたが、その晩は何も起きなかった。
入院4日目。この日は私の人生で一番体が辛い日となった。午前9時半、分娩台に寝て固定され、陣痛誘発剤を入れ、足元から重りで“風船”を徐々に引っ張るようにした。後は分娩室でひとり陣痛が起きるのを待つばかり。陣痛がきたらナースコールをする事になっていた。大体1.2時間だろうと聞いていた。ところが陣痛が来ない。最上級のひどい生理痛のような鈍痛がずっと続き、同じ姿勢でいるため腰も背中も痛い。冷や汗はどんどん出る。13時頃まではたまにうめき声も上げていたが、そのうち声を上げることすら疲れてできなくなってきた。15時、母が病院に駆けつけた。分娩室には家族も一切入れないと言われていたが母を呼んでもらった。母は苦しむ私を見て、先生のところに勢いづいて説明を聞きに行った。分娩室の外で朝から待っていた夫も私との面会を看護婦さんに申し出た。きっと、男性が見たらびっくりするような姿のため看護婦さんは夫を分娩室に入れなかったのだと思うが、私は夫を呼んでもらった。夫の顔を見たら少し辛さが和らいだ。16時までは様子を見ましょうと言われていたが、母が先生にすごい勢いで私の辛い状態を訴えたからだろう、15時20分、急遽次の処置が行なわれた。やっと分娩台から解き放たれた。自然
分娩ができない場合、全身麻酔をかけて先生の手で赤ちゃんを外に出す。その場合、赤ちゃんが元の姿のまま外に出る事は難しいと聞いていた。できれば自分の力で産みたかった。もし赤ちゃんが私の外に出たくないのなら、ずっと一緒にいたかった。ずっと一緒にいたいから陣痛が起きないんだと思った。でも、もうタイムリミット、お別れの時が来た。違う処置台に固定され、全身麻酔をかけられた。意識が無くなり、誰かに手を握られている感触で気がついた。目を閉じたまま、誰の手か分かった。夫だ。夫に手を握られ布団に横たわる自分・・状況が分かった。終わったんだ。私は目を開けた。そこには優しい夫がいた。静かに涙が出た。17時頃だった。後から夫に聞いた話によると、麻酔後全ての処置が終わり、眠ったままの私との再会を許された母は、まず私の顔にかかった乱れた髪をなで上げたそうだ。母が涙ぐんでいたので夫はひとまず席をはずし、母と交代で夫は私の側に座ったそうだ。その夜、父も病室に来てくれた。父と母と夫。みんな辛かったと思う。入院5日目、出産翌日。起きてびっくりした。両胸が甲羅のようにパンパンに張っていて痛い。自然な事だそうだ。それより辛かったのは左脇のおなかと背中が時間と共に痛くなったこと
だ。夜にはひどい痛みに耐えられず、痛み止めの注射をしてもらったほどだ。痛みの原因はその産婦人科では特定できず、退院後紹介してもらった国立の大きな病院で明らかになった。6日目、痛みは多少和らいだので、予定通り退院した。病院にいるより家にいた方が精神的に落ち着くと思ったからだ。その夜遠
くに住む義母から電話があった。電話口で義母の声を聞いた途端泣いてしまい、自分に驚いた。実の母の前では強がっているのに、夫の前と同様、義母に対しては強がれないらしい。辛い6日間だった。結局全身麻酔を4回もかけ、点滴や注射も予定よりかなり多く打った。稽留流産の事実を知るまでは体調はとても良いと思っていたのに、次の日からの入院6日間は、嘔吐・発熱・長時間の痛みとの戦いでひどいものだった。精神的にも参っていたからなおさらだ。
退院後
私は気分を紛らわすためにも1日も早い職場復帰を望んだが、妊娠4ヶ月目の流産は通常の出産と同様6〜8週間の産休が義務付けられていた。非情にも考える時間がいっぱいあった。体は1週間もすると楽になったので、家の大掃除をしたり、多くの友人と会ったり、本を読んだりして過ごした。妊娠を告げていた全ての人に電話やメールで流産の報告をした。悲しいお知らせだが、隠さず、むしろオープンにしたかった。みんな電話口で泣いてくれた。ありがたかった。中には、「早く忘れて」と言う声も多かった。でも、逆に決して忘れてはいけないと思った。記憶はいつか薄れていく。でも、あの子は確かにこの世に存在した。外の光は見ていないけど、ちゃんと居たんだ。絶対忘れてはいけないし、あの子の為にいっぱい、いっぱい泣いてあげようと思った。赤ちゃんの遺骨は、退院後3週目に夫の実家のお墓にいれさせていただく事になった。本当は、骨壷はずっと自分の側に置いておきたかった。しかしそういうわけにはいかないらしい。夫の実家に行く途中、列車は山に囲まれた美しい川に沿って走る。深いエメラルドグリーンの川。その景色を見た時、思わず骨壷を抱え、車窓に近づけた。この子と一緒にこの景色を見られるのはこれが最初で最後だと思うと、涙が溢れてきた。お墓では、私もお会いした事がないひいお祖父ちゃん、ひいお祖母ちゃんの隣に骨壷が納められた。私はご先祖様に自分の自己紹介と、赤ちゃんの紹介をした。どうか、この子を宜しくお願いしますと手を合わせた。でも、赤ちゃんには、お母さんのところに帰ってきたかったらお知らせしてね、と話しかけていた。初めの頃、赤ちゃんに名前を付けるのはやめようと話していた。あまりにも辛すぎるから。でもあの子が私のおなかから出てちょうど1ヶ月、気持ちも落ち着いてきたので夫に名前を付けてもらった。『薫』、男の子でも女の子でも良い名前だ。死後何日か経って人工的に外に出されたため性別は不詳だったから。薫を形に残しておくため、エコーの写真をアルバムにして母子手帳と共に一冊にまとめた。最後の写真は11週と4日目のものだ。立派な人間の姿をしている。何度見ても、かわいい。特におでこのラインとプックリしたほっぺはなんとも言いがたい。退院後自宅静養中にインターネットで流産や死産についての知識を得たと同時に、同じような境遇で悲しまれている方の多くのメッセージに触れる事ができた。状況や感じ方はそれぞれだが、“流産後、よその小さな子供や妊婦さんを見るのが辛い”“
流産で入院や通院している時に、お産の人と一緒なのが辛い”という方が多いのに驚いた。それは経験した人にしか解らないとても辛い気持ちだと思う。幸い、私と夫はその真逆だった。2人とももともと子供が大好きだったが、この件以来ますます街や電車で見かける小さな子に興味を示し微笑むようになった。私は妊婦さんを見かけると、ガンバレガンバレと心の中で応援し、無事に産まれるように祈った。特に忘れられないのは、私が流産処置のため入院した病院で、新生児室の窓越しに見た赤ちゃん。ちょうどお母様がいらしたのでお話を伺ったら、早産でちょっと小さめだったのだとか。多分2000g前半だろう。とっても小さかったけど、懸命に手足を動かす姿に命の偉大さを感じた。この子には頑張って育って欲しいと心から願った。退院から約1ヵ月後、和歌山に住む実のおばあちゃんが急に亡くなった。最後に会ったのは2年前の私の結婚式の時だった。とても優しく朗らかで、若い子に負けない程のツルツルお肌が自慢のおばあちゃんだった。当然悲しかったが、反面嬉しくも思った。というのも、私と夫の両方を知る人で天国に逝ったのはおばあちゃんが初めてだったからだ。薫は夫のご先祖様のお墓にいれてもらえたとはいえ、そのご先祖様には私も夫もお会いした事がない。おばあちゃんの遺影に、何度も“薫を宜しくお願いします”とお願いした。おじいちゃんにその事を打ち明けると、「おばあちゃんも天国でお仕事ができて喜んでるよ」と言ってくれた。
薫から教わった事は多かった。いままで試練らしきことがなかった人生で、初めて自分が試された。薫の存在を私達夫婦は前向きに捉えた。命の尊さを実感し、多くの人の温かさに触れ、夫婦の絆は強まった。お互いの必要性を再認識し、どこに行くにも何をするにも、ますます仲良くなった。次に命を授かった時、その子には最高の愛情を与えてあげられるだろう。その子の魂が薫のものだったら良いのに・・と思うが、どうなんだろう。薫がまた私達の所に舞い降りてきてくれることもあるのだろうか。薫が私にひとつの大きなきっかけを与えてくれた。
子宮筋腫の手術だ。流産処置後の激痛の原因は、大きな病院で調べた結果、筋腫部分が入院中の様々な処置によって変化を起こした事にあると判明した。筋腫部分は以前から石灰化を起こし、一部壊死しているらしい。今回の流産の原因は特定できないが、筋腫であった可能性も考えられる。今後また妊娠した時に同じ結果になるのは絶対に嫌だし、無事に出産できたとしても妊娠中心配でならないだろう。私の筋腫自体は、必ずしも今すぐに手術をしなくても良いものだそうだ。ただ今後何十年の人生の中で、常におなかに爆弾を抱えているようなものである事、手術するなら若いうちのほうが良いらしい事、妊娠を希望
している事などから、開腹による部分摘出術を受ける決意をした。夫は私の体にメスが入ることに抵抗を感じたようだが、これは薫が与えてくれたチャンスであり、おなかに残るキズは薫の証だと思う私に、最終的に同意してくれた。流産から4ヵ月後、子宮筋腫の手術は無事に済んだ。おへその下5cmのところから縦に10cm、手術痕が残った。薫の証。これから私と薫はずっと一緒だ。次の春以降には妊娠が可能になるらしい。次に宿る命には、薫の分まで、最高のベッドと愛情を用意してあげたい。天国の薫も、それを願っているはずだ。