2002514(350)
PM 3:07 第2子  双胎第1子女児出産
PM 3:08 第3子  双胎第2子女児出産

2002515日 
 AM 4時 双胎第2子は天使になる(新生児死)       
死因:右肺低形成
(詳細は解剖待ち)

妊娠がわかった時
次の子欲しい・・・
長男も1才を過ぎて、育児もだいぶ楽になってきたこともあり、あの出産の喜びをまた感じたい。兄弟も欲しいし、出来れば女の子を授かりたいと思い、まだ断乳していなかったが、子作りに励む。
やったー2人目!?・・・市販の検査薬で陽性反応!長男の事があるので、お隣の奥さんに付き合ってもらい、長男を出産した病院へ。検診でいきなり2個の袋が見える。一緒に見ていた私は「あれれ?」先生は「おそらく二卵性ですね。不妊治療しましたか?親戚に双子はいますか?」いえいえ、全く覚えが無いです。嬉しいやらビックリするやら・・・宙に足がついていない状態で帰宅。早速以前お隣に住んでいた双子のママへ電話。
双子の場合、妊娠中期までに一人の子が吸収されたりということもあるので、取あえず今の段階では・・・という報告しか出来なかったが、あちこち電話しまくったのはよく覚えている。主人には帰宅するまで知らせなかった。

主人が帰宅して、早速超音波の写真を見せる。主人「で、どっちが赤ちゃんなの?」良く分かっていないようだ。私「だから両方赤ちゃんだよーん」
2人共、ワクワクしていた。早速実家に電話していた主人はとても嬉しそうだった。私の両親は離婚しているので、双方に電話した。実父は「まだ確定じゃないんだな」実母は「断乳していないのに作るから・・・」と反応が暗かったのを良く覚えている。

妊娠初期・・・
この頃から下着泥棒が出没する。マタニティパンツ、ババシャツ好みがうるさいようで、ピラピラしたものには興味が無いようだ。これは未だに続いていて、授乳用ブラ等を好んでいる。
とりあえず、2人が無事に育つことを祈りつつ、いつものように長男と公園行ったりの生活。
双子だと、ずっと
2週間間隔で検診があること、検診費用も1.5倍かかることに驚く。今年は医療費すごいだろうと思い、医療費控除ノートを付けることにした。つわりも長男のときと比べてすごく軽い。長男のときは食べて吐いての繰り返しで救急車のお世話にもなった。きっとこれは女の子だ!
羊水検査について・・・さて、妊娠中誰しも一度は考えることと思うが、「もしも障害があったら・・・」と私たちも考えた。障害があっても授かった以上産むつもりだが、さすがに2人ともだときついかもしれないと考えて、先生とも相談したが、先天異常の確率と流早産の確率を考えて、羊水検査はしないことに決めた。とにかく無事に生まれれば何とかなるよね。と主人と心を決めた。

妊娠中期・・・
安定期に入り、右も左も順調に育っている。
2人とも女の子のようだ。バニシングツインの心配はもうなさそうなので、代表をやっている育児サークルの皆さんにお知らせする。今後は今までのように1人では張り切れないので、役員を決めて分担にしてもらった。区の双子の会へ参加して、先輩ママと話したりした。女の子の双子ママにお下がりや双子用ベビーカーも頂いた。実母は食器洗い機を買ってくれた。洗濯機も一番大きいものに買い換えた。単胎の妊娠との違いが出てくるのがこの頃である。妊娠7ヵ月にして、すっかり単胎の臨月サイズのお腹になる。上の子があまり遊んでもらえない、断乳させられた、前よりかまってくれないというサインを出してきたので、ママ友達にお願いして、色々と遊びに連れて行ってもらった。まだ春先の“こどもの国”へのピクニックはきつかったけど、とても楽しかった。そして無理がたたって、切迫早産での入院。「このままお産まで入院してもらいたい」との先生の言葉。実母は病弱なので長期のお願いは出来ないし、義理両親も「入園式(主人の妹の子)があるから・・・」と断られる。親族の援助が無いので、入院中にママ友達にメールを打ちまくった。「助けてください。もう無理です。」結局週末だけの入院で退院させてもらった。退院も友達に迎えに来てもらった。張り止めの薬は中期に入ってから常用していたが、きつすぎるので一旦軽いものに変えてもらっていた。無理に退院するのだからと、元の薬をもらい、出来るだけ安静を言い渡される。退院後、早速ベビーシッターを探し、毎日午前中だけ長男の外遊びをお願いする。今までママと離れたことの無かった長男は突然のママの入院、退院後のベビーシッター、今まで以上に出入りが激しくなったお友達などのストレスからか、毎日のようにじんましんを出すようになる。そんな長男を見ているのはとても辛くて私も涙が出てきたりした。2人が生まれたら、今までの埋め合わせするからごめんね。毎日言いつづけていた。

妊娠後期・・・
本当にママ友達に助けてもらった。家に来て食事を作ってくれたり、差し入れてくれたり、
オムツ替えも辛かったのを察して、やってくれたり、私と長男のことを思って、色々と助けてくれた。皆すっかりどこに何があるのかを知っていた。帰宅の遅い主人もテーブルにメモを置いておけば、何でもやってくれた。従姉妹も良く来てくれて、お風呂掃除、掃除機かけたり、本当によくしてくれた。近所の八百屋のおじさん、地区センターの方も知っていて、色々と助けてくれた。私は「今日も一日もった」と早く毎日が過ぎることを祈っていた。32週までは何とか持たせたかった。そして、皆のお陰で35週までもった。皆が2人に会うのを楽しみにしていた。毎晩長男を寝かせつけながら、お腹にも子守唄を聞かせていた。唯一ゆっくり胎動を感じることの出来る時間だった。

最後の検診・・・
「よく持ちましたね。後少し頑張りましょう。2人とも2000gくらいだね。」GWでまたしても大きくなったお腹を抱えた私は、もう限界だった。自分の全貯金を上げるから、一時間だけ代わって欲しいと良く友達に言っていた。先生にも言ったが「双子ならそれくらい大きいもの」と言われた。子宮口も少し開いているので、来週か再来週には帝王切開という話になった。2人とも逆子ちゃんだし、ここまで頑張って危険は冒したくなかった。お腹の張りはもう良く分からなかった。あばら骨が痛くて、皮もパンパンだった。ベットで寝ることは出来なくて、ソファにもたれてうたた寝する毎日だった。検診の後、たまたま実家に里帰りしていた女の子の双子ママの家へ遊びに行った。引越しするまで、身近で2人の成長を見ていたので、私もこんな風になるんだ。頑張ろう。後は育児のことしか頭になかった。この日の夜、主人が名前を考えた。今までミギーとダリーと呼んでいた。

2002年5月12()
主人の休日出勤に付き合う。30分程度で終わるとの予想をはるかに越えて、3時間くらいかかった。
その間長男と外で待っていた私はヒーヒーだった。長男はカラスに襲われたり、私を押し倒して一緒に転んだり・・・限界だった。

2002年5月13()
昼過ぎどうも破水した感じがする。でも確信が無い。長男のときも破水から始まったので、たぶん破水だろうと見当をつけ、主人に早く帰ってきてとメールする。最後の巨大なお腹を見に来た友人の差し入れの鯖の味噌煮を夕飯に食べてから、入院した。病院では、高位破水ということで、ウテの点滴で絶対安静を言い渡される。夜中NSTで心拍を測定するが、2人とも全く同じリズムなので、看護婦さんが心配して先生にエコーで確認してもらう。2人とも元気。心拍が一緒なのはそれだけ仲がいいんだと思った。
2002年5月14()
午前中先生から、「本当はあと一週間持たせたいんだけど、もう母体が限界だと思うから、分娩不可避ということで搬送するね」との事。二人分の保育器が空いている病院がなかなか無くて、搬送先の病院はお昼近くになって決まった。いよいよ出産になると思うと胸が高鳴った。
昼近くに救急車が到着して、着の身着のままで搬送される。車内で「ワールドカップが始まる前で良かったね」と話していたのを覚えている。
搬送先では物凄い勢いで全てが進んだ。Drは「あなた良くここまで持ったわね。分娩不可避どころかパンパンじゃない」と言われた。まだ帝王切開の説明を受けていなかったので、こんなに色んな手続きがあるなんて知らなかった私は驚いた。レントゲンを取るときに右の子を上手く隠すことが出来なかった。会社に行っていた主人が到着し、実母と長男と従姉妹が前の病院から荷物を持って到着した後、すぐに手術になった。
2人が生まれて一瞬だけ酸素をはずされて見ることが出来た。1人は足を触れた。もう1人は奥で銀紙みたいなものに包まれていた。「もう1人は?」と言ったときに、また酸素をされた。手術室から出るとき、何だかとても不安だったが、もう生まれたんだから大丈夫だと思っていた。病室に戻りしばらくすると、保育器に入った次女が運ばれてきた。肺に水が溜まっているので搬送しますね。大丈夫ですよ。」と言われ、どちらにどの名前にするかは、顔を見てから・・・と言っていた主人がその時に名前を決めた。
画数がより良かったからというのが後になって聞いた話である。とても不安だった私は「早く搬送してあげて!」と思った。

2002年5月15()
その後は薬で寝ていたが、夜中に搬送先から電話が入っていると言われ目が覚めた。ベットごとナースステーションに行き、電話に出た。何を話したのかはよく覚えていない、声が出なかった。入院している病院側は「術後間もないから出せない」と言い、もめていたが、「タクシーで行く」と言う私に折れた形で、結局主人が迎えにくることになった。
ずっと礼香に付き添っていて欲しい主人が迎えにくる・・・ということが私を暗くした。点滴、導尿、首から腰に刺している麻酔をぶら下げて、主人と搬送先に向かった。車内では何も話さなかったような気がする。搬送先に到着して、車椅子を借りて車内から降りるとき「頼むから要介護状態にならないで」と主人に言われた。いつも元気な私がそんなに動けないというのに驚いたのだろうが、私自信も動けない事に驚いた。私のお腹の右側にいた礼香は
NICUの一番奥の部屋の一番奥にいた。色んなものをつけていて、左眼だけで私を見た。ただ生かされているだけの状態で、「もういいですね」の声にうなづいて、礼香は天使になった。ただ泣くしか出来なかった。丁寧にチューブをはずされて、初めて抱っこした礼香はとても可愛かった。寝ているようにしか見えない。口元以外は主人に似ていて、ミスジャパンになること確実なくらいの美人だ。主人は私の肩を揉みつづけていた。2人とも涙は止まらなかった。
○○ベビーUという足にはめるバンドが唯一の形見になった。主人が沐浴をさせてあげて、家族
3人の写真を撮って、解剖までの時間を3人で部屋をもらって過ごした。
主人は写真を撮りまくっていた。私はただ腕枕をして泣きながら頭を撫で、匂いを嗅いだ。何も言葉は出なかった。主人が色々と電話したりしていたのをボーッと聞いていた。段々礼香が冷たくなるのがとても辛かった。解剖の時間だからと離れて、次に会ったのは病院内のお別れの場所で棺に収まっていた。後に聞いたら、その間に母と長男は抱っこする時間があったらしい。
長男は良い子良い子してチューをしたとの事。先生看護婦さんたちが手を合わせて、礼香は初めてのドライブで家に帰っていった。
病室に戻って、しばらくしたら沢山の先生が来て、もとの病院に戻るのは危険だからここで入院するように、残った長女はここに搬送してもらうからと言われた。
長女のことはすっかり忘れていた。長女の搬送後、担当の
Drから「そろそろおっぱいが欲しいみたいです」と言われ耐えられなかった。亡くした子と生きてる子に挟まれて、一体どうしたらよいのか分からなかった。
2002年5月16()
看護婦さんに様々な疑問をぶつけて泣きまくっていた。助産師さんが私の問いに一つ一つ答えてくれた。
産科の
Drも辛抱強く答えてくれた。それでも自責の念はなくならない。一生自分を責め続けるだろう。長女の為に搾乳を始め、NICUに夜な夜な通う日が始まる。礼香が私を連れて行ってくれることを祈っていた。
2002年5月17()
礼香の火葬の日。外出許可をもらい、主人に迎えに来てもらって自宅に帰る。しとしとと雨が降っていた。
主人の両親、私の妹、主人、私、長男でのお葬式。私からは搾乳した母乳しかあげるものが無かった。
写真を入れようと思っていた矢先に「家族の写真は入れちゃ入れない」と言われた。礼香にキスしたら薬品の臭いがした。ひどすぎる。生きるものが死ぬのは当然だけど、順番通りじゃないのが許せなかった。お経なんてどうでも良いし、神も仏も信じられないし、誰に何を言われても腹がたった。
小さい骨壷と一緒に帰宅して、また病院へ戻った。
手術はどうやら大量出血だったらしい。5000ccといわれた。浮腫もひどくNICUに行くだけできつく眠れなかった。Drに「母乳に影響の無い睡眠薬を」と勧められたが断った。臨床心理の先生に話を聞いてもらえるということも断った。もう自分はどうでも良かった。
浮腫がひどくて死んでしまえればラッキーと思ったし、うたた寝すれば怖い夢を見てハッと目が覚めた。お祝いとお香典を一緒にもらうのも辛かった。
唯一入院中に会いたかったのは、同じ女の子の双子ママだった。今会わなければ一生機会を逃すような気もしていた。
私の無理を聞いてくれて名古屋から来てくれた。一緒に泣きながら色々と話してくれた。何を話したのか良く分からなかったが、嬉しかった。お腹が空いてもいいんだと思った。
毎日面会に来ていた主人も週明けから手続きなどもあるので会社に戻った。主人は沢山の仏壇カタログを持ってきて、「礼香には一生分のお金を使うんだ」と言っていた。
義理両親が毎日長男を連れてきてくれた。眠れない夜。
NICUにいる長女の包まっていたタオルを持っていきなさいと婦長さんに言われ、その臭いを嗅ぐと少し落ち着いた。
助産師さんは毎晩浮腫を取るマッサージや足浴やアロマテラピーをしてくれた。
退院のときは「やけ食い、やけ酒してもいいんだよ。よく頑張ったんだから」と一緒に抱き合って泣いてくれた。
退院後四十九日まで
退院した日に、気を使ったのだろう義理両親は帰っていった。病院だと眠れないからと退院を早めたので、やはり体調はひどかった。浮腫じゃ死なない。礼香が私を迎えにこないということが腹立たしかった。
子宮の戻りも良く、あと二三人は大丈夫らしいし、帝王切開の傷も順調と言われ、何でこんなに丈夫なんだ?と益々自分が嫌になった。自分が明日死んでもいいから、礼香に生きて欲しかった。礼香に何もしてあげられなかったと、毎日泣きながら鶴を折りつづけた。友人は一緒に泣いてくれて、話を聞いて、お線香を上げてくれた。「本当に切ない」と私から連絡するまでそっとしておこうという友人、「よしっ動物園に行こう」と連れ出してくれた友人もいた。
名古屋の友人は毎日メールをくれた。死産経験の友人とも色々と話し合えた。普通「頑張ってね」と言われたら、この場合相手の気持ちを汲んで
「うん。ありがとう」だと思うのだが、私は「無理だよ。生きてるのがやっと」と最初から言っていた。
長女には申し訳なさから、毎晩主人の帰宅後
NICUに通った。母乳は出ていたが礼香にお供えしたくて、あまり持っていかなかった。生きてくれてありがたいのだが、見るのが辛いからと避けていた。
四十九日の前に長女が退院した。やっと家族5人が揃った。悲しみはまた深くなった。
法要で「諦める」という事についてのお話を聞いたが、「自分が子供を亡くしてから言ってくれ」と思った。たった四十九日で何をどう諦められるのか?
絶対私と同じ境遇の人はいないと孤独感は募った。
その後
三ヶ月近くかかって、3ヵ所全ての病院に置きっぱなしだった私物やら、借り物などを返したり、手続きやらをした。区役所では、礼香の分の乳児医療証ももらった。「清算が済んだら返却してください」と言われたが、そのつもりはない。大切な宝物だ。長女のフォロー検診に行ったときに、臨床心理の先生に是非お話したいと誘っていただき、それ以来検診のたびに面談して頂いている。
天使の
HPに出会えて、本当は双子三つ子のママと知り合うことも出来た。亡くした礼香への思いを日々募らせながらの長男、長女の育児は辛かった三人それぞれに対してどうしたら良いのか分からなかった。新盆にあわせて納骨があり、それも辛かった。一生手元においておきたかったが、婚家から「残った長女に何かあるから」と言われ、何かあるたびに礼香のせいにされるのが嫌だという理由で納骨に踏み切った。主人の実家(九州)に長男と主人が礼香を連れて行った。見送る最後まで涙は止まらなかった。新盆が済むまで、どうやって生活していたのかあまり覚えていないが、家族と沢山の友人に支えてもらった。玄関に「こんなことくらいしか出来なくてごめん」と食料品を置いていったり話を聞いてくれたり。
皆一生懸命私の悲しみを何とかしようとしてくれていたと思う。
少しずつ主人の気持ち、祖父母の気持ち、長男の気持ち、長女の気持ち、そして友人の気持ちを思いやれるようになって、皆悲しいんだと思った。主人と
3ヵ所の病院どれか訴えるとしたらどこ?という話をしたときに私は最初に通院していた病院と答えたのだが、主人は礼香が最後に搬送された病院と答えた。
針を刺す場所が1_違ったからかもしれないと・・・。その話を聞いたときに父親と母親の悲しみの違いが分かった気がした。
ある会に参加し貴重な友人と出会えた。同じ境遇で、三年近くもネットの世界も知らず、一人で思いを抱えていた彼女と知り合って、何か行動を起こしたいと思った。
長女が笑うようになったり、この先成長するたびに悲しみが襲ってきて、動けなくなるのだろうという覚悟も出来、悲しみを一生抱えていくという腹もくくれたら、素直に長女を可愛いと思えるようになった。毎晩寝るときは位牌もベットに連れて行く。永遠に三兄弟として、三人それぞれを大切に思って生きていくだろう。
礼香がお腹にいたとき、私は本当に幸せだった。私より先に逝ってしまったけれど、世界中で一番可愛い礼香。私の元に来てくれてありがとう。