2002年11月7日 第二子男児  
死因;36週2日  11月6日心不全のため心停止
体重 955g  身長34.5cm  胸囲24.0cm  頭囲27.5cm

妊娠判明 
2002年春
瑠音(るね)は私のお腹にやって来た。
長女が1歳9ヶ月、待ちわびていた二人目の子供。娘の公園友達6人と仲良く揃って二人目の妊娠生活がスタートした。毎日嬉しくて楽しかった。まもなくつわりが始まって、一人目同様ひどかった。食べては吐き、食べなくても吐き・・・5ヶ月まで続いた。それでも娘に付き合って毎日公園に行ったりして有意義に過ごしていた。プールにも行ったし海にも行った。
私もパパも娘も、あの頃だっていつでも瑠音と一緒だったんだ・・
宣告9月3日(27週と1日)
いつも娘を連れて妊婦検診に行っていたが、性別がわかるかもしれないと半分無理やりにパパを連れて行く。いつもどおりに検診は進み、先生がエコーで瑠音の姿を映す。ずいぶん詳しく見てくれるな〜なんて思っていた。そのうち一人の先生が来て、二人で険しい顔をしてみている。そのときも私は「性別ぐらいで真剣だな〜」なんてのんきに思っていた。その後の先生の一言から瑠音が天使になるカウントダウンが始まることになる。「頭の中に水がたまって脳室が拡大しています。水頭症が疑われるので大きな病院を紹介します」頭の中は散らかっていたが、以外にも冷静に生後のことを見通していた。パパも「はぁ・・・」なんて間の抜けたことを言っている。その足ですぐに病院へ向かい、同じ宣告を繰り返された。
長い待ち時間の間、落ち込むことも泣くこともなかった。ただボケッとしていたと思う。ただ呆然ととらえていただけで、水頭症について簡単な知識しかなく、生きられると勝手に思っていた。家に帰って両親に電話をしたときも、まるで他人事のように妙に淡々と報告していた。この時点では生まれてから障害を抱えて向き合っていかなければならないことも理解していたし、将来のことも考えていた。私はすぐに公園の友達にも報告した。人に話すことをなんとも思っていなかった。というより話しておきたかった。瑠音が病気であること。生後に障害をもつであろうこと、そのことを哀れだと思われたくなかった。病気であろうとなかろうと、私にとっては上の娘と同じ大事な子であることには変わりはない。そのことに触れないように、腫れ物を扱うような態度をとられるのだけは絶対嫌だった。みんな驚きつつも、私の気持ちを理解してくれ望んだとおりに接してくれた。いまでもそのことにとても感謝している。報告を受けて私の父がすぐに行動を起こしてくれて、ある方の紹介で別の病院と出会った。その初診のときも平常心だった。
そして、「疑い」は「間違いない」ことを知る。その瞬間から私の頭の中で、「この子にとって一番良いこと」に向かって考え出していた。自分を擁護するわけではないが、「何でこんなことに!」とか「何でわが子が!」という気持は一度も起きなかったし、これから先のことしか考えていなかった。起きてしまったこと、今よりも前のことについて悩むのは違うと思った。しかし周囲からは報告のたびに同じ事を言われた。「もっと早くわからなかったの?」「なんで(親戚にいないのに)そのような病気になるの?」「いまからなんとかならないの?」口をそろえて言われた。翌日から入院して毎日いろんな検査をした。
羊水検査、MRI,血液検査・・・・。入院中も結構ボケッとしていた。でも、とても元気に瑠音はお腹をけっていた。気になって眠れないくらいに、動いていた。
退院の日、先生方から検査の結果について説明を受けた。それは私たちの予想をはるかに越えた、深刻なものだった。「子宮内胎内死亡」。自分には縁がないと思っていたことが、起きる可能性が高いらしい。瑠音はダウン症だったのだ。
出生しても障害と向き合うどころか生存すらできないかもしれない。カウントダウンがどんどん加速していく。それでも私は流産していたはずの瑠音の生命力を誇りに思い、悲しいとは思っていなかった。
その夜、パパと名前を決める。「瑠音」。「瑠」という字には宝とか宝石という意味があり、娘の「夏音」とそろえて「音」の字を使うことで二人が姉弟であるという証にした。
カウントダウン10月23日(34週と2日)
最近胎動が弱いような気がしていた。回数は普通だけど、けり方が弱い。周囲に話しても「気のせいだよ〜」「あまり気にしすぎても良くないよ」などといわれるので一人でひそかに思っていた。でも、私の勘は気のせいではなかったのだ。事実この頃から発育は止まり、瑠音はかなりしんどかったようで、臍帯の血流も悪くなりNSTの最中に心音が途中で下がったりしていた。時間の問題になってきた。今すぐ帝王切開すれば生きた状態で出せる。でも瑠音にとっては私のお腹から出る=死を意味していた。もちろん、生きている瑠音を見たい気持ちはある。でもそれは私たちのエゴでしかないと思うし、たとえ暖かい、体温のある瑠音を抱けなくても、一日でも長くお腹に入れて生きていてほしかった。話し合うまもなく私たちは妊娠を継続することを決めた。死に行くことをわかっていながら妊娠を続けることを反対する人もいた。「かわいそうだから出したら?」と言われたこともある。私には「殺せ」と言われているようで腹がたって仕方なかった。この子が生きるか死ぬかは私たちが決めることではない。権利もない。お腹の子は一人の人間である。母親の体の一部ではないのだ。「かわいそう」という言葉が憎らしかった。この日、先生が瑠音の横顔の写真をくださった。白黒だけど穏やかな、とても弱っているとは思えない力強い顔だった。退院してから一週間に一度の間隔で見てもらっていたが、この頃には私もパパも自宅から病院までの距離を通うことや日々の緊張感から精神的にも肉体的にもかなり疲れてきていた。 一週間がとても短かった。
NTSでモニタリングすることになったが、どの角度からも心音を取ることができず直接エコーで確認することになった。かろうじて心臓が動いていることは確認できたが、拍動が遅く、発育も停まっていた。ここ数日、生理痛に似た下腹痛と腰や骨盤が痛いと思ったら、内診の結果、子宮口が指1本分開いていた。瑠音は相変わらず逆子で、胎動は一日に4〜5回に減っていた。
突然のお別れ11月6日(36週と2日)
いつもどおりに検診へ。母と2歳の娘と3人で病院の近くでお昼を食べてから向かった。胎動は朝から一度もなかった。いつもと同じように腹囲などの計測の後にドプラーで心音を確認できず、その場で看護婦さんがエコーで見ることになった。私はあれから毎週、心音が取れずに苦労する看護婦さんに弱ってきていることを必ず言い添えていた。その時も確かに言ったと思う。エコーでは不整で非常にスローだったが心臓は動いていることを自分の目でも確認した。10分ほどして先生から呼ばれてエコー開始。そのときはすでに瑠音の心臓は止まっていた。「残念だけど・・・」といわれ、自分でも目で見て心臓が動いていないのを確認した。分かっていたからだろうか、涙も出ず「そうですか」と言っていた。今考えると信じられないほど冷たい反応である。でももう私は分娩のほうに気持ちが移っていた。すぐに緊急入院することになり、母に手続きを頼んでパパにも連絡をしてもらう。
夕方4時に入院、少しして子宮口を人工的に広げる処置をする。1〜2時間すると一定の間隔で弱い張りが来ていた。まだまだ歩ける程度で、食事もできたし様子を見に来てくれた先生と話したり、看護婦さんと笑いながら話していた。8時、トイレに立った瞬間に大出血。その後も少しづつの出血は続き、陣痛の中で自分で3回も下着を着替えた。だんだん陣痛は強くなり、4〜5分間隔になり合間に寝るることもできなかったので薬をもらってウトウトする。もうお尻のほうにものすごい圧力を感じて降りてきている感じがしたが、一人目のときの地獄のような痛みの記憶がよみがえり、時間的にもまだまだこんなもんじゃないと勝手に思っていた。入院してから陣痛のさなかでも、私は「死んだ子を産む」虚しさや悲しさは一切なく、瑠音に対する最後の仕事を無事に成し遂げることだけに集中していた。
幸せな死産
11月7日
朝7時に看護婦さんが様子を見に来たので昨夜の出血のことを報告すると、内診してくれた。看護婦さんは驚いて先生を呼びにいき、まもなく先生が来た。陣痛は1〜2分間隔になっていた。処置室でラミナリアを抜いたら、瑠音のお尻が出てきたらしく、誰かが股を押さえている。陣痛と処置の痛さのダブルパンチで気を失いそうだったが、「」最後の仕事」という言葉が私を支えていた。看護婦さんが呼吸をリードしてくれるが全然できない。二人目なのに恥ずかしいほどパニックしていた。
息を吸いすぎて手がしびれている。数人に抱えられてストレッチャーに乗せられ、スタッフがLDRまでダッシュしている。天井がものすごい勢いで流れていく。「ドラマみたい・・・」痛みの合間にそんなことを思っていた。でもお産の進みが速すぎて私の頭は付いて来れていなく、いきみの指示が出ても方向もわからないしタイミングも計れないほど余裕をなくしていた。数回いきんだら体は出たようだったが、頭がやはり引っかかっている。あとから先生が説明してくれたが、子宮口が全開する前に8cm開いた時点でお尻が出てきてしまったらしく、骨盤位では良くあることだという。体が陣痛で強張って力が入っていたため、麻酔科の先生が登場したと思ったら、次の瞬間には眠っていた。
AM8:30、瑠音が静かに生まれた。体重955g、身長34.5cm、小さすぎる瑠音に産声はない。
目が覚めると布団がかけられ、部屋に誰もいなかった。お腹から出てすぐに見たかったのに見られなかった。まもなく看護婦さんが来た。当たり前だが、「おめでとう」とは言ってくれない。なのに私は幸せな気分で、早く瑠音に会いたかった。その頃パパはすでに到着して瑠音に会っていたという。看護婦さんに私に見せても大丈夫かと聞かれたそうだ。頭がうっ血して大泉門も陥没していたので頭を隠そうとしていたようだった。私の意志を確認して、瑠音をつれてきてくれた。ものすごく小さくて赤くて、さらに小さな手を胸の前に合わせて寝ていた。確かに頭は陥没したりしていたが衝撃はなく、「かわいい」しか思わなかった。パパにそっくりで思わず笑ったが、私たちは幸せな気持ちで瑠音を見下ろしていた。先生が「少しダウン症の特徴的なお顔をされていますね」とおっしゃって初めて、瑠音がダウン症であることを思い出した。ダウン症ではなくパパの顔だとしか思ってなかった。それくらい幸せでうれしいという、普通に生きた子を産んだのと同じ気持で満ちていたのだ。本当に、本当にかわいくて、死んでいるなんてとても思えなかった。瑠音は体が小さいだけじゃなくて皮膚も未熟だったので、背中には板が入れられていて抱っこも慎重にしなければならなかった。
そっと抱き上げたら、冷たいけど暖かかった。955gは小さいけど、あの重みは一生忘れられない。
今でも私の腕は瑠音の感触をちゃんと覚えている。2歳の娘にも会わせた。彼女には赤ちゃんが生まれるという概念がちゃんとあり、「ママがうんだの〜?」「ねんねしているね」なんて言っていた。しかし普通の赤ちゃんと違うとわかっているようで、表情は固まっていた。家族で写真を撮り、穏やかに過ごしていた。
葛藤
出産当日は夜の10時まで部屋に一緒にいた。交代で挨拶に来た看護婦さんが「かわいいですね」と声をかけてくれた。私は何もいえなかった。その時少しずつ心の中に悲しみが出始めていたのかもしれない。でも瑠音が死んでいるとは頭でしか理解していなかった。瑠音が連れて行かれると部屋の中で一人、まるで穴の中にいるようだった。寂しくて眠れなかった。
翌日、病理解剖をお願いした。退院まで瑠音には会えないといわれたので、しょっちゅう目を閉じて思い出していた。パパが葬儀社を手配したので病院の地下ラウンジで打ち合わせをする。淡々といろんなことを決めていったので、担当の人は驚いたかもしれない。私もいたって普通過ぎて、周りから見たらとても昨日死産した人には見えなかったと思う。自分自身もこれから喪失感が襲ってくることを考えもしなかったが、瑠音がいなくて寂しいとか、本当の気持は誰にも言えずにいた。
退院の朝、看護婦さんに「松本さんあまりにも普通にしているから、なんて声をかけたらいいかわからなかった。」「頑張らなくていいんだよ」といわれて初めて泣いた。入院中、私は平気じゃなかった。話したかったけど、泣いてはいけないような気がしていた。私をねぎらってくれる人はいたが瑠音への思いを聞いてくれる人はいなかったので本当にうれしくて、暗く深い穴から顔を出すことができた。看護婦さんから声がかかり、関係者通路から霊安室という部屋の札を見て少しいやな気持ちになった。扉が開き、部屋に通された瞬間に現状にものすごい抵抗を感じた。祭壇が組まれ、その前の小さなベットに母が買ってくれたベビー服を着た小さな瑠音が寝ていた。たくさんのスタッフが泣いている。焼香している・・・馬鹿みたいだが、このとき初めて瑠音は死んでいるのだと認識した。棺に納める前に最後に一度抱かせてもらった。解剖したので、瑠音の顔は最初に見たときよりも小さくしぼんで見えた。説明のつかない悲しみが、いままで蓋をしてきた気持が湧き上がり、瑠音の顔がかすんで見えなくなった。小さな小さな棺を抱いて車に乗った。産後2日で体は辛かったが、どうしても一度家族4人で自宅に帰りたくて無理を押して帰った。途中で市役所に寄り、死産届を出す。死産届には名前を書く欄もない。瑠音は戸籍にすら載らないのだとおもうと虚しかったし憤りもあった。自宅で棺の蓋を開け、「お家に帰ってきたよ」と声をかける。姿があるのは今日で最後なので、どうしても人目見せたい人たちがいた。娘の公園友達である。みんな来てくれて、怖がらずに瑠音の顔を見てくれて「かわいいね」「パパ似だね」と言ってくれた。
私には何よりもうれしかった。これまで瑠音の病気が分かってから、絶望せず、隠したりしないことこそが瑠音の存在を認めることになると信じてきたので、その言葉に自分は正しかったんだと安心できた。
姿がなくなるということ
翌日、また小さな棺を抱えてくるまで火葬場に向かった。到着すると葬儀会社の人が来ていてロビーで待つように言われた。その日は火葬の数が少なかったことは幸いだったが、ロビーで小さな棺を抱く私は自分が見られていることがわかった。案内されて炉の前に立つ。小さい棺にはもっと小さな瑠音が寝ていた。みんなの手によって小さな顔の周りに花やぬいぐるみ、お菓子などが入れられていく。私は何も声をかけられず、顔を触っただけだった。棺を持って逃げ出しそうな自分を一生懸命抑えていた。どうして骨にしなくちゃならないの?私の子を勝手に焼かないで!と叫びそうになっていた。非常に事務的に蓋が閉められ、炉に入れられた。本当にギリギリのところで瑠音を連れ去ろうとする自分をこらえていた。今でもあの光景は思い出したくない。さらに小さい骨壷には「松本瑠音、満36週」と書かれていた。この前までお腹をけっていた瑠音、そしてさっきまで自分の腕の中で眠っていた瑠音は今、骨になり壷に入ってしまった。扉が開いた瞬間、台の上にはよく見ないとわからないほどの少ないお骨があった。愕然としてひざに力が入らなかった。「少ないね・・・」「思ったよりは残っていて良かった。」などとみんなが話しかけてきた気もする。私は「これしかない・・・」と思っていた。姿がなくなる・・・なんともいえない喪失感、そして虚しさ。でも、あんなに未熟なのに大腿骨がしっかりと残っていた。先生がいつもエコーの画面上で長さを計っていたあの大腿骨だ。大事な立派なその大腿骨をパパと二人でそっと納めた。
4人家族です
瑠音はもういない。でも私たちは目に見えないところでつながっていて、いつでも瑠音を思い出して話ができる。2歳の娘も瑠音を自分の弟だと認識しているし、その弟がいないことも理解している。幼い心を痛めたかもしれない。でも弟がいたこと、そして死んでしまったこと、全て含めて絶対に忘れてほしくないと思っている。だから私たちは胸を張って言います。「松本家は4人家族です。」