2003年10月21日  21週0日
高血圧合併重症妊娠中毒症 常位胎盤早期剥離

H15.6.20
町の基礎健診、子宮ガン健診にて「生理が遅れているのなら、病院に行ってください」と言われる。
翌日
以前、ストレスによる生理不順で通院していた病院へ、妊娠がわかる二度目の結婚。
一度目の時は、避妊していないのに、絶対出来なかったので、自分は出来ない体質なのだと思っていたけれど、子どもができることがわかり、安心。
定期健診では、特に心音などには異常なし。だた、少し小さめとのこと。通信大学の授業や、以前から約束の旅行など、遠出の多いことがあったが、母子共に健康。ただし、もとから血圧が高く、それが心配の種だった。
10.15
健診時、体重3キロ増。血圧210/110。浮腫み、たんぱく尿も出た。通院の病院は「婦人科」だけの出産施設無しの所なので同じ町のもっと大きな病院へ紹介される。(里帰り出産を望んでいた為、それでもいいと思った。先生や看護師さんは親切だったし、車の運転が苦手な私には、相方が休みの土曜日にも診察してるのがよかった)
翌日
自分で運転をして、病院へ。血圧180/100。即入院。降圧剤の点滴治療開始。夕食後、目まい、そしてすべて吐き戻しが長時間続く。胎児の心音、胎動は異常なし。
夜中点滴の数が増える。高圧剤、胃酸を抑えるもの、栄養剤、吐き気止め・・・気づいたらスパゲティ状態。意識は朦朧。かなり母体がキケンな状態。翌日から、個室へ。
明かりは血圧を上げるのため、カーテンも開けない薄暗い部屋。意識は朦朧。検査のため、ベッドごと病院内を移動。浴衣を羽織っているだけなので恥ずかしかった。(両腕に点滴で袖が通せない)日にちも時間の経過も意識朦朧で分らない状態。浮腫み、ほてり、吐き気は続く。すでに絶食状態。
医者の判断「あと2週間頑張れば、赤ちゃんを何とかできるかもしれない。けれど、母親がそこまで持つか。赤ちゃんが無事生まれても、成長できるのかも問題」と相方(ダンナ)が言われたらしい。母体の命を守る方に決断。点滴をたくさん下げたままのベッドのままで、分娩室に移動。子宮を広げる処置・・・陣痛。相方も仕事を休んで付いてくれていた(私より寝てたけど(笑))陣痛の中、夢をみた。元気な男の子の赤ちゃんを「悠汰」と呼んでいた。
10.21
pm1:51
出産。泣き声はない・・・320g25cm女の子出産前に、すでに胎児の心拍は停止していたとのこと。個室に戻る。相方に「赤ちゃん見る?」と言われる。「うん」相方がガーゼに包まれた赤ちゃんを連れてくる。相方号泣。私は泣けなかった・・・頑張ったね。ゴメンねとしか言えず。ゴム人形みたいな赤ちゃん。各パーツが相方にも私にも似てる・・・
翌々日火葬。火葬準備は全て相方と私の母親がやってくれた。母親も死産経験があった。
火葬前日、相方が病院へ泊まる。早朝、小さな木箱の赤ちゃんを連れてきた。お花やミルクを入れてあげる。この時、私は号泣した。離れたくなかった。。。女の子だったので「ゆう」と名前をつける。火葬の頃、ペガサスに乗ったゆうが「頑張ってね」と空に飛んでいく夢をみた。
その後10/30 歩行が可能になる。11/4 4人部屋移動おばあさんばかり。「産みたかったでしょ」と何度も言われる。
当たり前ジャン!ムカつく(笑)11/6 初めてのシャワー11/21 退院11/28 納骨
私と相方の名前には「あき」が付きます。赤ちゃんが生まれたらやっぱり「あき」がつくのか?
というのが友だちの中での話題でした。お寺さんが、親切に無料でゆうに戒名を下さいました。「秋月水如」。あ・・・やっぱり赤ちゃんにも「あき」が付いてたりします。
今更ながら私の場合「血圧が高い」と言われてた時点で何らかの治療をしておけば、血圧に関してのこういった症状は起こりにくかったのではないかと思います。
退院間際、「もしかしたら、いなかったかもしれないのよ」と看護師さんに言われました。いなかったかも・・・私はいるけど、”ゆう”はいなくなってしまいました。
また・・・産婦人科の選び方や自分の体調管理の仕方にも反省してしまうところがあったのではと後悔していますそういって、後悔ばかりしても、”ゆう”はうかばれません。
とにかく今は血圧を安定させて、リスクの少ない状態で次の時には元気な弟か妹を産むからね、と約束したので当分は治療に専念したいと思います。