2000年12月29日(40週1日)『第二子』
常位胎盤早期剥離

2000年12月27日 
最後の検診になった。明日は出産予定日。右京君は元気に動いていた。心音もバッチリ聞こえている。
本当は28日が 検診の日だったけど混むと思って27日に変えた。あとでこのことが後悔する事になる・・・
先生はお臍の上あたりをエコーで見ながら「ここら辺痛くありませんか?」と 私に聞いてきたが「大丈夫です。」と答えてしまった。実は朝、先生に聞かれたあたりがちょっとチクチクしていたのにたいした事と思わずに言わないでしまっていた。このとききちんと先生に伝えていれば右京の命は助かっていたかもしれない。 
ゴメンね右京。ほんとうにゴメン。
29日am1.00
具合が悪くて眠れない。目の前に貧血の時にみえるチカチカとした光がみえた。私はまだ我慢できるかな〜am4.00まで我慢していた。その時私の目の前には妊娠と出産の本があり「早期胎盤剥離」のページを見て「こうゆうこともあるんだ〜」と人事のように見ていた。 まさか今自分がその状態だとは思わずに・・・・我慢ができず、病院に電話してむかった。車の中でどんどん気持ちが悪くなり何度も吐いた。体をどこに置いたらいいか分からない。陣痛のような痛みの波はない・・・   
病院につきエコーを見た。右京がいた。続いて心音・・・・・聞こえない・・・・・・(この時の画面に映った右京くんの姿ははっきりと覚えている。)
「機械がおかしいのかなぁ?」そうおもったとたんに周りが急に慌ただしくなり「もしかして・・・・」  不安で不安でたまらなくなった・・先生が    「ご主人はあちらですか?」   そういって部屋には私一人になった。
出産台の上で天井を見上げながら   「まさか・・・まさかね・・・落ち着け落ち着け」心の中で繰り返した。
お父さんと娘が大声で泣きながら入ってきて 「大丈夫か?・・・残念だった・・」そう言ってギュット手を握ってくれた。
私はまだ先生から何も聞いていなかったけれどお父さんと娘が泣きながら入ってきたときにはっきりと右京がダメだったことを知った。
それからは陣痛がくるのを待って出産することになったが、ずっとお腹が張りっぱなしで陣痛のような波がないことを告げると、また病室は慌ただしくなった。エコーを見て「緊急手術!○○先生に連絡とって!」 そのころには意識がどんどん薄らいできていたがかすかに「子宮を取る事になるかもしれません」声が聞こえた。
気持ちが悪くなにもかんがえることができなくなっていた。

ベットの上で目がさめた。たくさんの管・酸素マスク・心電図・・・・・テレビもラジオも何にもない部屋でずーっと天井を見ていた。看護婦さんが時々様子を見にきて熱を測ったり、点滴の量やおしっこの量を調べていた。
お腹をおそるおそる触ってみると大きかったお腹はぺっちゃんこになっていた。  それなのに時々ガスがお腹を動くのを胎動だと勘違いすることがあった。今ここにいるのは夢かもしれない。夢だったら早く覚めて・・・何度も何度も祈った。  ほんとうだったら隣には赤ちゃんがいるはずなのに 涙が、涙が、止まらない・・・・・・「どうして・・・どうして・・・どうして・・・」夢であってほしい何度もそう思った・・・
妊娠40週1日    
体重 3214g 身長50cm 胸囲30cm  常位胎盤剥離・播種性血管内凝固症候群・帝王切開・死産
取り出されたとき、右京くんは死後硬直がはじまっていたそうだ・・・
右京くんのSOSに気がついてあげられずゴメンね・・・右京  ゆるしてね・・・・・・

30日集中治療室。
・・右京君とはじめてあった。「立派なおとこのこだよ。もったいなかったね」 そう言って助産婦さんは抱かせてくれた。お父さんの寝顔とそっくりだった。鼻も口も横顔も・・みんなみんなそっくりだった。      
お腹の中であんなに動いていたのに・・先生・看護婦さんたちが2人きりにしてくれた。右京君は冷蔵庫に入っていたのでひんやりとしていて、どっしりと重かった。ほんとうだったらあたたかいはずの右京くんはとってもとっても冷たかった。お目めが開くんじゃないかと思って何度も何度も右京くんのお目めを触っってみた。涙の暖かさで生き返るんじゃないかと思って頬と頬をくっつけてみた。
右京くんに 「ごめんね、ごめんね。」それしか言えなかった。その日右京は白い服を着て、小さな小さな棺にはいり右京くんが生活するはずだった家に一度行ってから11.30火葬がはじまった。11時.30分 私は病院のベットの上で目をつぶった。不思議なことにその時点滴の機械が壊れブザーが鳴った。「お母さようさようなら。」そう言いに来たのかな・・・・・ごめんね。ごめんね。涙があふれ出てとまらなかった・・・・
31日
帝王切開の人が入る回復室に移った。6人部屋に2人だけ。1人は出産した人だった。私の頭の上の壁を隔てたところ{隣の部屋}には授乳室があった。1日中赤ちゃんのなき声とお母さん達の笑い声が聞こえてくる。布団をかぶっても耳をふさいでも・・・生まれて初めて地獄というものを味わったようなきがする。
同じ部屋のお母さんがご飯を食べながら「私、3回流産しているんだ。子供ができにくいうえに育たなくて・・何度も何度も病院を変えてやっと今回・・・。ほんというと、結婚して10年経つからもう諦めようとも思ったんだ〜年だから・・・」
と話しをしてくれた。その時なんだか分からないけどとっても嬉しかった。私は自分のことを何も話さなかったけど、どこからか私の話を聞いて一生懸命話してくれたんだろうなぁ〜形は違うけど子どもを失った悲しさ、きっとわかるんだろうなぁ。と思った。
20世紀最後の夜。私は布団の中で独り泣いていた・・・・

病院で私は人前で泣けなかった。大声で叫びたかった。大声で泣きたかった。暴れたかった。でも誰もいないところで独りでウェンウェン泣いた。朝、鏡を見ると瞼はくぼみ、奥二重の目がくっきりとした二重になっていた。
先生・看護婦さん・・・みんなの前でできるだけ心配をかけないように頑張った・・でもそれがかえってみんなを心配させたようだった。
自宅に戻ると、見るもの聞くもの全てが辛かった。外に出ると目にする赤ちゃん。耳にする泣き声あやし声。
人と会うのも怖かった。「どっちが生まれたの?」と聞かれるたびに死産したことを告げなくてはいけない。買い物に行くのもとても勇気がいった。外に出るときは涙をグッとこらえ笑顔を作り一人になった車の中や家の中で涙を流すことが続いた。サンサンと降注ぐ太陽のj光も暗く感じた・・・
時がたち
右京を亡くしたとき辛く悲しくて苦しい思いがずっとずっと続くと思っていた。でも、少しずつ少しづつ右京の死を受け止め、ゆっくりと周りを見れるようになってきた。右京を忘れたわけではないのです。
成長は生まれたときのままで止まっているけれど、一緒に生きているそんなかんじなのかもしれません。右京が与えてくれた天使ママ・パパやその他の人たちとの出会いも、私には大きな力となりました。みなさんとの出会いがなかったら、今の私はいなかったと思います。
この出会いを大切にしていけたら。。そう思っています。右京は私の大切な息子です。そして私は右京の母です。ママのところにきてくれて有難う。ママの子どもになってくれて、有難う