2001年9月30日(18週0日) 
午後0時05分  第ニ子男児出産

妊娠が判った時 
娘の13回目の月命日の日、お墓参りから帰って来て検査薬を使ったら陽性反応が出た。誕生死して解禁されてから毎月がんばってたのになかなかできなくて基礎体温表を見てはイライラ、出血が来て落ち込むという毎日。そんな時に旦那が海外に長期出張となり、別居することに。その間に不正出血で病院通い・・・
精神的にもかなり追い詰められていた状態だったので、帰国が決まったのに会わせてタイミング指導してもらっていた。その1回の指導で私は新しい命を授かる事ができたのだった。
娘の月命日にお空から届いたプレゼントに、私も旦那も嬉しくてしょうがなかった。「きっと娘が見守ってくれている!」他の天使ママさんも二人目は無事に産んでいるし私にも今度こそは産声が聞けるような気がしていた。
妊娠初期(2001・6〜2001・8)
娘の時のこともあるし、とにかくカロリーと減塩に注意して生活した。娘を妊娠していた時はあまり手伝ってくれなかった旦那だったが今回の妊娠がわかったときから、家事を手伝ってくれたり優しくしてくれた。お互いに「今度こそは」という思いがあったから、喧嘩をすることもほとんどなくなった。
前回の妊娠の時に通っていた病院へは不信感でいっぱいだったので自宅に帰って来てから、病院を変えた。今の先生は慎重にみてくれるし、前よりは質問もしやすい感じだったので通院もそんなに苦にはならなかった。
診察に行くたびに「順調に育っているからね」と言ってもらえるのが嬉しい反面「ほんとうに大丈夫なのだろうか・・・」との不安もあった。でも、この時期にもし何かあったとしても、それはたまたま受精卵に問題があったものだからどんな薬を使っても、どんなに安静にしていたとしてもどうにもならないんだよと言われて私も覚悟が決まったと言うか、少しだけ気持ちが楽になった。あんなに不安で一杯だったにもかかわらず、先生のこの言葉を聞いてキャンセルしようと思っていた海外旅行にも行ってこられた。
つわりが始まってしまい大変だったけど、前向きに妊娠と付き合っている自分がいた。
妊娠中期(2001・9〜)
相変わらず、胎児の様子は「順調」そのものだった。各種検査もパスし、発育も問題なかった為、一般妊婦さんと同じように1ヶ月に1度の検診で良くなった。カロリーもかなり抑えているので、体重の増加もないし。病院や市役所のマタニティークラスにもがんばって出席した。市役所のマタニティークラスに出席した時、悲しい事があった。
私は誕生死しているとはいえ、経産婦。経産婦さんって言われた時に手をあげたら「今日はお子さんは?」と聞かれてしまった。「私は死産したので、子供はいません」と答えたら、周りの初産婦さんは皆さん「私には関係ないわ」というような顔をして「へぇ〜」との声。流産だって、死産だって、誰にでも起こりうることなのに・・・それ以来、天使ママ以外の妊婦、産婦さんと話しをするのが怖くなってしまった。。。
その日の午後、今度は病院のマタニティークラスにも参加した。
同じようなお産ビデオを見て、新生児の人形を抱っこして・・・午前中のこともあって辛かった。お話ししてくれた助産師さんも私だけ様子が違うのがわかっていたようで帰りに私の話を聞いてくれた。私が泣きながら娘の話しをしたら、その助産師さんも涙を流してくれた。その助産師さんも以前5ヶ月で流産をしているそうで、自分の事も思いだして私に話してくれた。そして、娘の名前を聞いてくれて、私を母、天使になった娘を1人の人間として扱ってくれた。それが、何より嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。「ここに転院して良かった。がんばれるような気がする」心からそう思えた。
9・16
今回も分娩は実家の方の病院でと思っていたので分娩予定病院で行っている16週の特別検診を受けに行った。胎児は発育順調、血液検査等も異常はなかった。ただ、子宮口が柔らかいですと言われた。前のこともあるし、「本当に順調なんでしょうか?」と聞きなおした。「子宮口は柔らかいが閉じているし、前回も臨月までもっているので大丈夫でしょう」との答えが帰ってきた。私は柔らかいという言葉が引っかかっていたが、娘の時に大丈夫だったんだからとほっとした気分で帰ってきた。
9.29 
安定期と言われる5ヶ月にも入り、少し前から胎動もわかるようになってきた。娘の時には何故か旦那に触れられるのが嫌で嫌で1度もといっていいくらいお腹を触らせたことがなかった。だから、今回はお腹の上からわかるようになったら絶対に触らせようと思っていた。
夜、寝る前くらいにお腹に手を当てていたら「むにゅむにゅ」と動くのが判るようになっていた。もう眠そうな顔をしていたが、旦那の手をお腹の上にあてて暫くまっていると「むにゅにゅ〜」っと動いてくれた。旦那もはじめての胎動を感じることができて、とても嬉しそう。
もっと触って感じていたかったみたいだけど、座っていて腰も痛くなってきたのでまた明日ということで、床につくことにした。
9・30 
朝6時頃だっただろうか。腰というか、お尻が痛くて目がさめた。かなり便秘だったので、もしかして排便サイン?と思ってトイレに入ったが何かが詰まっている感じはしたが、便がでる様子ではなかった。トイレから出て布団に戻り少しすると、痛みが落ち着くどころかひどくなる一方・・・日曜日ということもあって、まだぐっすり寝ていた旦那を叩き起こした。
旦那も私のただならぬ状態を見てかなり慌てた。電話をしてとにかく病院!ということで、慌てて用意してもらった。用意が出来るあいだ、私はずっと娘の為に買った水子地蔵様に向かって「お願いです。お腹の子を守って下さい・・・」と顔をぐしゃぐしゃにしながらお願いした。
病院へ着いた時には、歩くのもかなり辛くなっていた。急いで当直の先生に内診してもらうと「子宮口が開いていて、赤ちゃんのお尻が見える状態」とのことだった。お腹の上からエコーを当てると、おたまちゃんはとっても元気に動いているのに・・・「もうダメなんですか・・・?」と恐る恐る聞いてみると、「まだ赤ちゃんも元気だし、方法がないわけではないです。できるだけのことはしてみましょう」と先生が言ってくれた。でも、その時の先生の顔はとても厳しいものだった・・・2階の分娩室に移動し、張り止めの点滴をされた。すごい勢いで液が入って行くのが判る。脈が倍以上にもなり動悸もかなりしていた。液体の入ったパックもすぐに空になってしまう・・・それなのに、痛みはおさまるどころか短い間隔になり酷くなる一方・・・いきみたいがいきめない・・・でも痛くてどうしようもない。痛くてかなり騒いだこともあって体力の消耗が激しいので、少し落ち着く様に注射をされた。すると、不思議と痛みが軽くなって、もしかしたらもち返すかも…なんて錯覚するくらいだった。しかし、この時点で陣痛の波は3分間隔。先生も「あまり辛いようなら張り止めをやめて分娩させたほうが母体の為ですよ」と旦那に助言してくれたらしい。でも、「できるところまで本人にがんばらせてください」とお願いしたと後から聞いた。
うとうとしていると、お腹の中で「ぼこん!!!」とものすごい痛みがした。
その直後破水し、結局私は出産となってしまった・・・張り止めを点滴し始めて6時間。息子が産まれた。
2001年9月30日(18週0日) 午後0時05分  第ニ子男児誕生
 身長:23センチ  体重:235グラム

入院中 
産褥熱はでていたが、出産を終えて体はすっかり楽になっていた。でも、私は放心状態・・・。夢だったんじゃないかって思いたいくらいだった。分娩中、外に出されてしまっていた旦那が戻ってきた。目が真っ赤・・・「よくがんばったね・・・」全然がんばれなかったのに、そう声をかけてくれた。赤ちゃんの性別は、旦那から聞いた。名前考えないと・・・その前に、赤ちゃんに合わないとと思った。娘の時には認めるのが怖くて自分で拒否してしまった。そのことが今でも1番の後悔。。。
旦那にお願いして連れて来てもらった。18週で産まれた私の赤ちゃんはとっても小さかった。私は分娩台の上で動けなかったが、思いっきり首を横に曲げて「こんにちわ」した。小さいけど、顔も体もとってもしっかりしている。助産師さんも誉めてくれるくらい・・・すやすやと眠っている様にしか見えなかった。苦しそうな顔をしていなかっただけでも、私には救いだった・・・
個室に移り少しして義母が出先から駆けつけてくれた。2回目ということもありかなりショックそうな顔。一方、こうなった経過を胆胆と話す自分がいる・・・とても不思議な感覚だった。
その後、実母、妹も群馬から掛けつけてくれた。でも、私はほとんど泣かなかった。お腹の赤ちゃんがもうダメかもしれないと言われたときから、心が揺れない。自分のココロの奥の方に悲しみ、辛さを押し込んで蓋をしてしまったような感じだった。
息子を出産したのは日曜日だったので、月曜日に旦那が市役所やら色々な所へ行って息子がお空へ行く準備をしてくれた・・・また、娘の時と同じようにお別れをしないといけないんだね・・・私は供養とか良くわかってないけど、娘の時と同じ用にちゃんとお寺で拝んでもらいたかった。何か自分を納得させるというか、そういうことをしたかったのかもしれない。
しかし、息子は週数が早い水子さんなので、あまりきちんとした供養をしてしまうと他の水子さんが妬きもちをやいてしまうことがあると言われたらしい。私は息子にはそんな思いをさせたくないと思ったので、簡単な形で済ませてもらうようにしてもらった。
出産当日は実家の母が泊まってくれたが、今日は旦那が泊まってくれることになったので二人で息子の名前を考えた。旦那が候補に上げてくれた読み方に漢字を当ててみたが、どうもしっくりこなかったので娘の時に男の子だったらと考えていた読み方に変え、旦那の名前から1文字もらい、そして私達4人家族の間がより強く結ばれるようにと願いを込めた名前にしてみた。携帯で探した姓名判断サイトで当てた漢字を見てみたら、わりかし良い運勢になった。亡くなった子の運勢なんて関係あるの?…って思う人がいるかもしれないが、少しでもお空で幸せな時間を過ごして貰えるようにと私達にできることはこれくらいだから・・・
火曜日の朝、旦那の家族、私の両親が揃った。あっという間に午後…息子がお空に行く時間だ。私は小さな箱に入った息子を初めて抱っこして玄関に向かった。先にお空に行っている娘の分まで愛情を込めて抱っこした。抱っこできたことが嬉しかった。嬉しいのと悲しいのとで涙でくしゃくしゃ。玄関で旦那に息子をたくし、私は病室に戻った・・・帰る時、看護師さんが迎えに来てくれた。「残念だったね・・・次またがんばろうね・・・」
私は今回もがんばらなかった訳ではない。でも、看護師さんも私が2回目だということも知ってるしきっとそれが精一杯の言葉だったんだと思う…
私もそれどころではなかったから、特にショックな気持ちも反抗的な気持ちなかった…そして、1時間ちょっとして姑が迎えに来た。納骨も同じ日にする為、その時間だけ外出許可を貰った。車に行くと、娘の時よりも小さな箱を持った旦那が座っていた。そこからお墓までは私が抱っこして行った。とってもちっちゃかったけど、更にちっちゃくなっちゃったね・・・
お墓につくと、義祖父が納骨の準備をして待っててくれた。きっと娘も弟を迎えに来てくれていたと思う。お寺さんに御経をあげていただき、
義祖父が「姉弟なかよくな…」って言って息子を娘の横に並べて収めてくれた。お空は雲1つなくて、とても青かった。迷わずに天国に行けたよね・・・
でも、旦那の一言は重かった。「姉弟仲良くお空に行かなくてもいいのにな・・・」神様がいるなら思いっきりなぐってやりたい気持ちでいっぱいだった。
産後4日目、退院の許可が出た。体調はまだ落ち着いていないが先生の配慮で。病室も10部屋位しか無い小さな医院なので、正直周りが幸せ産婦ばかりは辛かった。「個室でもここにいるの辛いでしょう。退院の許可を出しますので家でゆっくり休むようにして下さい。」そんな先生の気持ちが嬉しかった。自宅に帰りたかったが、旦那もいつまでも仕事を休むわけにいかないので旦那の実家で御世話になることになった。
退院後 旦那の実家に行く前に自宅に寄ってHPに今回の事を書いた。
お友達天使ママにも言っていなかったことだったので、そのお詫びもかねて・・・それから、旦那の実家に向かった。昼間1人でも大丈夫だった。
ネットは出来ないけど私は1人じゃない、天使ママがいることが私の支えになっていた。ネットができるようになったら息子のことをアップできるように、色々思い出して書いてもいた。でも、そんな生活もだんだんと苦しくなってきた。色々なことに現実感が出て来て1日も早く天使ママと話しがしたくてしょうがなかった。まだ体調が安定した訳ではなかったが、かなりのワガママを言ってもらい自宅に帰った。
帰って来てすぐにPCの電源を入れた。妊娠していたことをだまっていたにも関わらず、沢山の天使ママが私に、そして息子にメッセージを入れてくれていた。
「私、やっぱり1人じゃないよね…子供達もお空で1人じゃないよね…」そう思うと今までほとんど泣かなかったのに、涙が出てきた。ようやく、私のココロの氷が少しだけ溶けていくような感じ・・・やっと自分の居場所に帰ってきた感じがした。自宅に戻って暫くして、私は何度か大出血を繰り返した。そのせいか、貧血で動けない。胸もかなり張ってパンパンだし熱も持っていたので診察してもらうことにした。病院へ行くと相変わらず妊婦だらけ。1時間もその中で待っていたが、何も感じなかった。診察してもらうと、子宮には胎盤が残っていた可能性があると言われた。胸の張りもひどいので、強めの薬が出る事になった。診察の最後に先生が 「前回のこともあるし、貴方には辛い思いばかりでごめんね」って言ってくれた。先生は入院中の膣消毒も産婦が終わってからにしてくれたり検診の時だって細かく見てくれていたし、まさかこんなことになるとは思わなかったので今回も悲しい結果になってしまった私の事、とっても気にかけてくれていた。その気持ちがすごくすごく嬉しかった。ここでなら私にもいつか産声が聞ける日がくるのかもと思った。
今の私 娘を死産した時、何気なく「死産」という言葉を検索して天使ママという存在を知りました。それまでは、自分を責め、私が生きている事がおかしいと想い毎日死にたい気持ちでいっぱいでした。
半分うつ状態だった私を変えてくれたのが天使ママさん達です。
現実では、死産流産は「なかったこと・忘れなければいけないこと」が暗黙の了解のような感じがします。でも、天使ママ達は私の子供達の存在を認めてくれました。息子を流産した時、自分が自分でいられたのも天使ママの存在があったからだと思ってます。今でも、この辛い、悲しい出来事を思い出しては落ち込み、泣いてしまうことはしょっちゅうです。「泣いてばかりいないで・・・」と言う人もいるけど、私は泣く事も愛情表現の1つだと思ってます。赤ちゃんや妊婦を見るのはまだ辛いです。でも、少しずつ外へ出てみようという気になれるようになりました。
自分に無理をせず少し歩いては立ち止まって動けなくなることばかりだけど少しずつ前に歩いて行けたらと思っています。

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